読んでいない本

白石火乃絵

《本篇から、「Do cats eat bats? Do bats eat cats?」「〈現代詩〉総論 POETIX漂流記」「散文─詩」とつづきますが、四つでひとつの全体を構成している。水先案内をしたい。ひとまず、ほとんどの読者には、「〈現代詩〉総論 POETIX漂流記」以外積極的に薦める気になれない。ほかはほとんど原形質ママの表出となっているからだ。書かれた順からいっても、「総論」が最後で、地上に露出したハナの部分にあたっている。鳳尻紀の紙の本をつくるなら、これのみを選ぶとおもう。だが毎月冊子では過程も行き過ぎも形骸も積極的に採用していこうと決めた。Webリリースの強みを生かすべきと。かねてから、鳳尻紀という「偏向」第三シーズンは、わたしの勝手な直観で「エクスペリメント」をなんとなくの方向性にしようと、同人には共有してある。今月号のわたしの四篇もだいたいそういう気分の仮構線上に散文流をのせて書かれた。実験はほんのわずかの成功と数数の失敗とに帰される。成功した実験の価値は、その失敗の数に正比例する。たれがやっても成功する実験にたれも見向きしないだろう。たれがやっても成功するはずの実験が失敗したとなれば、それは発見である。その失敗の発見は、既成概念の崩壊をもたらす。文学者はいつの世もたれがやっても成功するはずの実験に失敗した自己発見者である。反対に、たれがやっても失敗しそうな実験を成功させたらどうか。既成概念はゆるがぬだろう。ただかれは美的に生きるか宗教者となるか自殺する他ない。わたしはある時期から、かつては一篇もかけなかった詩が書けるようになったことに慰安をおぼえるとともに、それでいいのかと疑問を抱くようになった。散文は書けども書けどもすり減った気しかしない。そして必ず失敗としてあらわれ、わたしを倒す。より強く倒されるために、

偏向」で連載中の「POETIX」「考える葦笛」には、哲学への言及が多いので、まずはわたしの哲学の読書履歴について念のためかいておきたい。なにを読んで来たかではない、なにを読んで来なかったか。

 まず、ニホン人のオリジナルの哲学者は読んだことがない、だからだれが哲学者なのかわからない。京都学派、という名前くらいはきいたことがある。大学二年(二一歳)のとき、創作の授業内で書いた掌編(お題が与えられていた)を読んだその授業のせんせいから、大森荘蔵の『物と心』の作品化だ、となんともひどいことをいわれ、学科の図書室でひらいてみたが、おもしろくないのでやめてしまった。中原中也が、西田幾多郎の読者であったというから、詩人レコメンドの「自覚に於ける直観と反省」の収録されている全集第二巻をネットオークションで買ったが、それで満足してしまった。西田の友達というすず大拙だいせつはアメリカの作家たちから名はきいていたが、さいきんになって『日本的霊性』をよんだ。あとでおもいだすかもしれないが、ほんとうにこれだけなのだ。現代のひとのはまったくよんでいない

 思想家、といわれるひとの文章はよんだことがある。とわいえ思想家詩人だが。森崎和江、吉本隆明、と、このひとは小説家だが埴谷雄高の『不合理ゆえに吾信ず』『二つの同時代史』(大岡昇平との対談)。三人とも六〇年代によく読まれていたひと。吉本、埴谷は大学で会った詩の師匠が大事にしていたので、いいつけどおり、さきの『不合理ゆえに』と、吉本は「固有時との対話」だけを繰り返しよみまくった。しばらくのち吉本隆明は「固有時」の膨大な草稿群「日時計篇Ⅰ」(Ⅱは未通読)を、詩人吉増剛造の『根源乃手』(略記)にみちびかれ、夢中になってかきうつし、暗唱した。気づくと思うが、詩ばかりだ。

 それから気がつくと、吉本隆明の思想の書とよばれる系列にも手をつけていた。「固有時との対話」(実質最初の詩集)をよんでいたからか、わりあいすんなりと読むことができる。というより、ここにすでにすべてふくまれてある、とおもった。これはマルクスにおける初期、とははなしがちがう。詩は、さいしょにぜんぶでるようなことがままある。わたしは、詩人は最初の詩集か、最後の詩集、どっちかの型だとかんがえている。吉本は前者。このひとの本は、「固有時」の入ってる『吉本隆明初期詩集』(講談社文芸文庫)ともう一冊、書けなくなってからのおはなし本『ひきこもれ』(2002)がわたしの読書履歴の上で大事だった。後のほうは、それまで詩しか知らなかった吉本の晩年の語り口にふれられたのと、なにより、わたしの小学校時代(平成13(2002)入学)の家庭と社会との雰囲気が真空パックされているのがおどろきであった。なぜ、そのときすでに八〇歳ちかくの文学者に、わたしの幼少期の空気が、年とった当のわたし以上に摑めていたのだろうか。わたしの生まれた年の地下鉄オウムサリン事件への発言などで、すでに思想家として死んだといわれていた吉本だが、それ以後も、わたしの小学校時代にどっぷりつかっていた「時代」というプールの匂いを、こうも思い出させてくれた物書きはみつからぬ。これは「固有時との対話」だけ読んでいたときにはわからなかったことである。ここが第二の出発点で、このひとの書いたすべてを読むときめた。気がつけば、この人のやっていた「試行」をひきつぐなどという大言壮語とともに「偏向」という同人雑誌を始めて今にいたる。とにかくこの二冊がわたしの吉本。かれので人口に膾炙している「大衆の原像」という思想、わたしの生まれたときにはすでにそれじたいが幻想とよばれたり、吉本自身が見失ったなどといわれるのをよく目にする、さらにこのひとを決定的に死人とした東日本大震災後の「原発」をめぐる発言まで含め、小学生から高校生までの十代のわたしが肌身でかんじ、またきりつけられてきた時代の空気をこのひとが外してるなとおもったことがない、『ひきこもれ』で一発で摑んだわたしの直観が外れたということも。こんなのはちょっと危険だろうか。

 だからいっておけば、わたしと吉本がちがうのはその原体験である。戦中派といわれたりするも吉本は、太平洋戦争下「やっちまえ」とおもっていた、天皇を絶対と信じた皇国少年であったと自ら語っている。そして敗戦の日、恥ずかしさのあまり疎開先の工場ちかくの海に飛び込んだという。信じたものに裏切られた、それはけっかてきに自分が自分に裏切られた体験でもある。おもい返せば欺瞞があった。だが、すでに自意識過剰でみずからに恃むところの多かった、「哲」とよばれた文学青年は、なぜ自分までもがこうなった、と自問自答しつづけた。終戦後、デカダンスののち、職探しや町工場での過酷な労働でからだをこわし東工大の特別研究生として研究室にもどる。その時期彼はひとりの少女との婚約を破棄する(これは史料研究によってかなり最近になって判明してきた事実らしい)キルケゴール体験のさなか、のちに『初期ノート』と名づく哲学草稿に没頭、つづけて「固有時」の詩草稿をかきまくる。これが一九五〇年。無名である。翌年東洋インキ製造に入社。会社勤めの後、実家で「日時計篇Ⅱ」の詩作に没頭。「固有時」詩草稿群(前述「日時計篇Ⅰ」)と合わせ五二八篇(秋〜翌年冬)、一日一篇以上。翌一九五二年、私家版で『固有時との対話』発行。翌年、社内外の労組を組織、賃金闘争をしつつ詩集『転位のための十篇』を私家版発行。闘争に破れ、年明けいまでいう窓際族の下位﹅﹅互換にあたる「一人だけの企画室」へ、翌週、古巣の東工大への派遣研究員を命じられ、実質的な失職状態に。鮎川信夫ら「荒地詩集」の同人になる。また奥野健男らとの「現代評論」の創刊同人となり「マチウ書試論」発表。一人暮らしをはじめる。翌一九五五年六月、本社への再配属辞令が出るが断って退職、三一歳で無職に。この年、同人雑誌にて文学者の戦争責任追求の口火をきる。──とここまで終戦後からの経歴を追ったのは、わたしのと似ているからである(ただし詩作の量質は劣り、労組運動でなく謎の活動が代わる)。がさきにもいったが決定的に原体験がちがう。わたしは一回の祭の成功とその後の現世的な敗北の数数において、信じた絶対、 Let's go Crazy! に裏切られたことがない。現人神でなくコトバだったからか。

 ゆえにだろうか。わたしが母の胎にいたときすぐちかくで起きた(実行犯のひとりが最寄のひとつ隣の私鉄駅から逃走している)地下鉄オウムサリン事件、それを起こした教団と教祖の麻原彰晃にたいし、まったく宗教性をかんじない。そこに思想性もみとめない。カリスマや感染力はあったのだろう、だがそれと宗教性とはその紙一重に大瀑布がある。わたしはカリスマや感染力のごときも知っている、ただそれはあくまでごときなのであって、本物はごときでない。そしてそれはある時期以上に人に留まるのでないということを。逆にいえば、ある期間、人は風たりうる。だがそのあいだその者は自らが風たることを知らないただの人である。年上や同い年、なんにんもの風の姿をしていた友人の面影がうかぶ。そしてそのまわりにあるのはいつも、ほんとうの涙と笑いであった。


 なぜ哲学の読書履歴をかくといいながら、宗教の話題になるか。わたしが哲学書をよみ、自らもまたなさんとするのは、ほんとうの宗教とニセモノとの区別を、原体験をもたない者に明示したいからだ。かならずやふたたび悪しきニセ宗教はあらわれる。わたしはそれが今度は「理系」からでなく、「文系」からわいてくる気がしている。大学研究者だけでなく、在野学者でも、詩をかくひとでもわたしは疑う。こういったひとびとのほとんどに、わたしのこれまでのケチな経験上、まずまず原体験がないからだ。

 ときどきわたしは自らが原体験レイシスト、青春ファシストなのではないかと疑う。そしてあきらかに詩による人類大殖民活動をおこなわんとするポエティカル・コロナイザに日日向いつつあると感じる。それがおそろしい。そして信じるとは、疑わないことでないとかつての体験から知っている。いつも、まちがえるかもしれない、すでにまちがえつつあるかもしれない恐怖とともにある。わたしが自分自身を信じるのは、わたしがいつもまちがえることを知っていると信じていることにおいてだ。まちがえをおこしつづけながら、それでもなぜかさいごはたどりつきたかったよくしるところにたどりついている。コトバがわたしをそこにみちびいた。そして何度でも。これを個人の体験におわらせないのがわたしのおもう哲学だ。そしてそれをおこなうのがわたしにとっての詩人。そのおこないをわたしは文学とよぶ。


 わたしが読んで来なかったニホンの「哲学」は、幻滅の七〇年代以降に出てきた「ポスト・モダン」に属するすべてである。その輸入元であるフランス現代思想も、アルチュセールの「出会いの唯物論の地下水脈」を唯一の例外として、読んで来なかった。読んで来たのは、実存哲学はサルトル『嘔吐』、カミュ『異邦人』のみ。第二次世界大戦後ではあとはブーバー「我と汝」「対話」、シモーヌ・ヴェイユの十代論文。アーレント『人間の条件』。大戦前はフッサール、ハイデッガー、ヴィトゲンシュタイン。十九世紀は、キルケゴール、ニーチェ、マルクス、フロイト。ようするに大物しか読んできていない。それ以前、カントは大事にしていて、スピノザ、ルソー、ホッブスは勉強段階出ず。マキァヴェッリの『君主論』は格別。数学系のライプニッツは他の言及でのみ、デカルトは『方法序説』を十代で読んだ。古代ギリシア哲学は、エピクロス、プラトンのみ、ごくさいきんになってアリストテレスをよみだした。なかでももっとも体験的に読んだのはキルケゴールの『反復』と日記、プラトン『ソクラテスの弁明』。いいわすれたが、ユングは『自我と無意識』のみ。と、ほぼこれでいいつくしたとおもうが、羅列したのは、これ以外は読んでいないということを痕跡づけたかったからだ(+パスカル『パンセ』一部分)。

 詩もだいたいこれと同じような調子で、七〇年代以降の「現代詩」はほぼまったく読んで来なかった。三年ほど前から、ゼロ年代後半以降の最果タヒ、暁方ミセイ、文月悠光、野崎有以、マーサ・ナカムラなど選んで読みだした。現役の男性詩人は吉増剛造、谷川俊太郎(先日亡くられたが)のみ。さいきんは姜アンリの『宇宙の塵のためのブルース』が格別によく、同い年の長沢なおにはシンパシイをもつ。「戦後詩」は多少読んでいる。戦前は、みすゞ、芙美子、ちか、中也、賢治、朔太郎、啄木、透谷のみ。とりわけ十代で自殺した少女の詩人たち、戦後「女性」詩人たちをよくよむ。あまり知られていないが折口信夫の三冊の詩集、朔太郎とその他の群馬の詩人たち(犀星も含める)、これ以外は読んでいない。外国語詩人は、尹東柱、フランス象徴派、キーツ、ブレイク(初期)、ポー、エミリー・ディキンスン。

 哲学と詩と読書履歴をかきだしてみたがようするにわたしは志向としてはいぜん近代人なのかも?と疑っている。小説は、七〇年以降だと、村上春樹だけ長篇を全作読んできた。戦後は太宰、三島を十代後半に、二十代初期石川淳、林芙美子。少し前に原民喜。戦前作家は岡本かの子、尾崎翠。梶井基次郎だけはつねに読みつづけてきた。一葉。ニホン文学ではあとはもはやきおくにのこってない。川端康成『古都』、『眠れる美女』。埴谷雄高『死霊』。探偵小説は、なぜか『ドグラ・マグラ』より『黒死館殺人事件』推し。江戸川乱歩は「押絵」。現代ミステリでは『涼宮ハルヒ』『小市民』シリーズ。伊藤計劃をメイン文壇が評価していないことは謎。黒田夏子。海外は、サリンジャー、ドストエフスキイ、カフカ。源氏物語は桐壺─夕顔以降は原文未読、與謝野晶子訳で追う。いいかげんこれくらいしか思い出せない。漱石と鷗外、『アンナ・カレーニナ』、『グレート・ギャツビー』、ヘッセ、ゲーテがもっとも古い読書。石牟礼道子。『死者の書』。賢治童話。沙翁。神曲。仏典。聖書。神話。悲劇。これ以外は読んでいない

 哲学、詩、小説と、そろそろ履歴を了えたいが、ようするに、ここに名のでていないのが今後わたしの文章に出てきたとすれば、それはあたらしく読んだということである。というのも、ちょうどこれを書く直前くらいから、ようやく国内外のポスト・モダンとむきあうことになってきたのでログをつけておきたく。『崖のある街』『「偏向」白堊紀』『「偏向」侏羅紀』のわたしの詩や文章に似たようなことがかいてあっても、参照したわけではない。自らの近代と向き合いつづけたけっか、似たようなところにぶちあたっているだけだ。というのをわざわざかくのは、フーコーは別格として、ドゥルーズやデリダといったわたしが毛嫌いしていたひとたちが、あんがいいいせんいっていたことにおどろいているから。

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