だいたい毎月冊子の二二冊目くらいになる。毎号、編集のわたしとしては、「作品」とはよべないまでも、エッセイのたんなる寄せ集めでなく、一つの物となるように作ってきたつもりだ。物になったという納得がいかないときは、ほとんど出来上がっていても長い時は四ヶ月(8─11月号)も置いて旅にでたりもした。あまり同人にも理解されてるとはおもえないが、PDF版とWeb版をネット配信してるだけの毎月冊子でも、リリースするとき、いつもわたしは、それがたんにTERMINALにfirebase deployを入力し、Xにリンクを貼って告知するだけであっても、製作分相当の心的エネルギイをもちいている。一旦預かった原稿束を「編集」製作し、一つのシナモノにする。その〆の作業がこのリリースという名の「自己疎外」で、この行為ナシにはいかなる物も成らない。作り手が〝わたしはこのモノではない〟と自らの手になる物を拒絶する、その時から物は物として自立しはじめる。「心的外傷」とまではいわないが、このとき作り手は、ある傷をその物から受ける。その反復がこの二二冊を作ってきた。新しく「偏向」ではデジタル面をメインとするチームを組んだが、中心となる同人市村は、このチームの方針につき「ものを作ったやつが神、口だけで作らないやつはカスっていう世界線/うんちくマンや予言者もどきはいらない//口だけになりがちな(自分だけかも)文芸活動と良い反動・補完的な存在」とうたう。わたしもこのチームに一応加わっているが、執筆兼編集者として、「口で何か言うこと」と「ものを書く」のは全く別の行為だと記しておく。夢騙りにすぎなくとも、それを文章にすることは、たんなる口先から一歩物質の方へ踏み出している。そこには必ず「自己疎外」の契機が含まれており、どんな放言、大言壮語のたぐいも、それが書かれるやいつか必ず自己へと還って来る。それに傷つくか否かに、書き手の自らの人生への態度があらわれるだけだ。「編集」も書かれたモノたちをもう一歩物質の方へ送り出す仕事と自負する。文芸活動は言論活動とは独立した人生づくりだ、たといそれが廃疾であっても。反動も補完もナンセンス。Mind your own business.