その8「都会の裂け目」
一、
晩秋の世田谷、祖師谷を歩く。団地には枯葉が撒かれ、銀杏はいま、盛りのときを迎える。紅葉も赤く色づいている。相も変わらず、こどもたちの聲がきこえてくる。黒くくすんだアパアトは、ひっそりと美しい。
ぼくは、団地の光景が好きだ。殊に、樹々が光を浴びて美しい秋の昼さがり、集合住宅群の剥げ落ちた壁の汚れまで心に通ってくる。東京を歩くと、時として出くわす、団地。建物は、大抵くすんだ白で、壁は剥げ落ち、灰色と緑を混ぜ合わせたような落下防止用のプラスチック塀が目につく。階段にはなんの柵も施されておらず、外から見ると、真っ暗な穴のような窓が所々空いている。集合住宅の一棟一棟は、ほとんど同じ姿で、「16」とか「17」とかいった番号が振られているだけだ。これが彼等の名前だ。雨ざらしにされる大量の自転車だけが、カラフルで、そのさきには、アパアトの入口が、真っ黒な口をあんぐりあけている。ステンレスか何かでできた、旧式のポストの銀色が毒々しい。無機質も極まれば、美しく見えるときがある。妙に懐かしいのだ。
団地に入って、平成初期の感覚をとぷとぷと浴びるのが好きなのだ、と思っていたが、そうでもないらしい。祖師谷の団地や、千歳船橋の希望が丘団地を歩いているとき、ふと気附いたこと。これは、方向喪失の感覚だ。どこもかしこも同じような建物に囲まれて、迷子になってゆく感覚。何度も歩いたこの街で、ふと団地に足を踏み入れる。大通りに出た。けれど、それも団地の敷地内の道で、少し歩くと、双子のアパアトが見える。建物は、どいつもこいつも似ている。気づけば、知っていると思っていた土地で、迷子になる。方向感覚を失ってゆく。地理的な方向感覚だけではない。内的な羅針盤まで、狂いはじめるのだ、この、街の樹海の中では。ふと、心に渦巻いていたモクテキイシキが剥がれはじめた。ミライに向かって動いていた感覚が麻痺しはじめる。これからどこに向かうとか、これからこういうことをしようとか、ミライ向きの羅針盤は、動きをとめる。自分は今、どこにいて、何をしているんだろうという問いが、忽然と湧きあがる昼さがり。
都会生まれ都会育ちというのは、ずっと不運のことと思っていたが、自分の育った風土を違った風に捉え直したいと思って、幾年か経った。団地の磁場による方向喪失感覚こそが、都会を生きる僕にとって、一つの裂け目である。そう思い始めて、あれこれ団地を歩いてゆくうちに、少年の日の思い出が蘇ってきた。小学六年生の頃、仲良くなった奴の家が、集合住宅にあった。中学入試を無事終えた、二月から三月末までの二か月間、ぼくは自由を体一杯に感じていた。放課後に何の予定もない、なんて久しぶりの感覚だろう。毎日のように友達と遊んでいたが、なかでも楽しかったのは、Kの家がある団地で遊ぶことだった。
それは独特な団地だった。団地は、皇居の敷地内にある。東京は中心に森をもつ不思議な街だ、とフランスの哲学者が述べていたが、校舎も公園も、幼稚園児向き程度の大きさしかない千代田区にあって、最大の自然、子どもの遊び場は、皇居にある。九段下の田安門を入口とする、北の丸公園が、小学校にほど近い。ブドウカン(ガキにとっては金のウンコをのっけた奇妙な建物にすぎない。)を左手に見つつ、北の丸公園の奥に進む。樹々に囲まれた散歩道があるが、そこをずっとまっすぐに進み、清水門のちかく、坂を下ってゆくと、その集合住宅群がみえてくる。たしか第一機動隊や皇宮警察の社宅群だったと思う。正確には団地とはいえないのかもしれない。それでも、坂からは、あのぱっとしない見た目の、どんより曇った白の、壁がはげおちた、均質の建物が仰々しく並んでいる風景が見えて来る。
一人子だったこともあり、4人兄弟というKの大家族に入っていくことが新鮮だった。建物は、例の、剥き出しの無機質といった感じなのに、一歩部屋に入ると、そこは広々として明るく、大家族の賑々しい生活感が漂っていた。お菓子をもらって、おうちの中でゲームをしている時もあったが、たいていは、外に繰り出す。アパアトの前に、小さなスペースがあり、そこで球遊びやら、缶蹴りやら、色々な遊びをしていた。気づくと、この団地に住む、別のクラスの同級生たち(あまり話したことがなかった)も遊びに混ざって来る。女の子たちは、一輪車にのって遊んでいる。相も変わらず、ぼくは余計なちゃちゃをいれて、彼女たちをおちょくっている。一輪車をみていると、急に乗り物にのりたくなってくる。Kの妹か弟の自転車を借りて、走り出す。坂道を登るのは大変だった。それも、この坂道を上から自転車で、ぶっ飛ばす快感のため。あともさきもない、自由を味わう歓びは、あの坂の上の風景に通じている。実は、受験期間も、時折、親には内緒で、Kの家に遊びに行っていた。ジュクがはじまるまでの短い時間を、ここで過ごしていた。勉強が嫌いだというわけではなかったが、本能は、ずっと遊んでいたい一念にかられていたのだろう。帰り道で時折、そこに住む同級生の親になんか逢ってしまうと、「ヤバイ、見つかった」と思っていた。だからこそ、入試を終えてから卒業式までの二カ月間は、なんの制約もない、無限の自由に思われた。あの坂道、ともだちの兄弟の自転車の座り心地、あの林道、そして錆びれた集合住宅の小さな空き地、一輪車で回る少女たち。これが、ぼくにとって自由に酔いしれたときの手札だった。
二、