フィールドワークとして生きる

村上陸人

 鳳尻紀では実感について考えたい。まずは手始めとして、最近の体験を振り返ってみる。昨年末に部屋の床を水拭きした。普段は掃除機をかけるだけなのだが、年末なので雑巾がけをした。雑巾を絞り、床をゴシゴシと拭き、埃をとる。雑巾を洗い、また床を拭く。四つん這いになって拭いてまわるのは、結構体力を使うのだが、心地よい疲労感でもある。だんだんと、床の上で上下左右に雑巾を動かす反復運動が癖になってくる。我を忘れて雑巾がけをする。すべての部屋を拭き終えたとき、じわっと充足感を感じた。

 雑巾がけで感じた充足感は、先月号で「やった感」と呼んだものだと思う。私は雑巾がけのどのような側面から充足感を感じたのか。まず重要そうなのが、疲れを伴うという点である。それから、我を忘れる没入が起きたという点も大事そうである。ついついのめり込んで本気になって作業をしたあと、ふと我に返って身体に残る疲労感を感じ、やったなーという感覚を得る、といったところだろうか。では、のめり込んで本気になってしまうのはどんなときか。

 のめり込んで本気になる、という状態を意識的に選択することは難しそうである。雑巾がけへの没頭も意図せず起きてしまった。雑巾がけの場では、主体の意図よりも、環境からの働きかけの方が支配的であったように思う。床と雑巾が、特定の動きの反復を身体に促す。部屋の形状が、拭き進めるたびに次に拭くべき箇所を提示する。雑巾がけにおいて、私は環境に働きかけられ、環境との相互作用にたまたま没入することができた。のめり込んで本気になるというのはこのように、意図してなる状態ではなく、意図せずなってしまう状態なのだろう。

 先月号「鳳尻紀執筆予告」で白石が本連載に触れてくれた。個体や性をこえた対話という文脈で、私の「フィールドワークとして生きる」という試みの「本気を感じ」てもらったと受け止めている。本連載は生き方としてフィールドワークを実践する試みなので、実生活での喜怒哀楽に向き合う。「本気を感じる」のは、その抜き差しならなさに由来するのかもしれない。他方で、雑巾がけから考えてみたように、本気は意図せず起きてしまう。環境からの働きかけに応じた結果、思いがけずのめり込んでしまう。そして、本気が起きてしまった先には、疲労と充足の実感がある。

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