序1:定義
〈現代詩〉とは何か。それは、以下の二つの条件をあわせもつ文芸作物というのに尽きる。
一、普遍的に詩といえるなにかをもつ。(詩とはなにか)
一、〈現代〉の現-在の言語表現といえる。(現代とは)
序2:方針
よって、〈現代詩〉を総論しようとおもえば、次の方針が有効である。すなわち、今日最新の〈現代詩〉のシーンをもってその総体とみなし、それを論じ尽くす、ことである。いいかえればこれまで累積された〈現代詩〉のアーカイヴは無視する。それらは現在の、すなわち〈現代詩〉の総体の土壌ではあるが、そのものではない。花を土壌へと還元することはできない。花は、それ自らが固有の表現であることによって、その土壌をも表現する。(本稿では、以後採用しないが、ここでのみ、吉本隆明の芸術言語論『言語にとって美とはなにか』に照らせば、この花固有の表現を生みだすのが〈自己表出〉、それを言葉の歴史性による制約によって支えている土壌からくるのが〈指示表出〉という概念にあたる。〝文学の作品や、そのほかの言葉で表現された文章や音声による語りは、一口にいえば、指示表出と自己表出で織り出された織物だと言っていい〟( 『言語にとって美とはなにか』 文庫版まえがき、角川ソフィア文庫)。ただ「概念」という概念についての共通理解を乞う煩をきらって、ここでは採用しない。ある「概念」やその有機体系(合理的なシステムというより、生態系や「言語ゲーム」のようにとっていただきたい、アメーバのように生きている構造体)は、つきつめれば──それは観念なので──わたしたちのもちうる全対象領域を覆う。たとえば、書家・石川九楊の〈筆蝕〉という概念で、一元的にこの世界を説明づけることも原理的には可能である。吉本は、文学作品に極言される、全言語表現という領域にたいし、〈自己表出〉と〈指示表出〉を、これは造語だが、二元平面的に使用している。が、理念的には、この二つで一つの概念は、人間のもつ全対象領域にまで、つまりそれらがすべて言語によってできていると言うことで覆うことができるが、吉本自身はそれをしなかった。人間の言語表現する前提には、人間の心とそれがもつ全幻想領域が想定されるからだ。吉本は全幻想領域にたいし、〈自己幻想〉〈対幻想〉〈共同幻想〉という三つの観念の位相を想定し、心には、〈原生疎外〉とその ベクトル変容としての〈純粋疎外〉を与えた(『共同幻想論』と『心的現象論序説』)。わたしがいいたかったのは、あえて吉本の言語理論の概念を転化拡大すれば、さきに掲げた〈現代詩〉の二つの条件をそれぞれ、普遍的な詩としての指示表出性、〈現代〉としての自己表出性(として)、その両方によって〝織り出された織物〟を〈現代詩〉と言う──と定義することもできたということだ。こうすると、作り手側からの目線で語ることができるが、本稿では、読み手側、しかも〈現代詩〉という島の外部の、すなわち旅行者からの視線で描きたいので、吉本の〈表出〉言語理論も用いず、さきの方針のほか、POETIXの原理も留保する)。まずは島の全域を地図ナシで踏破し、言挙はそれからだ。
序3:方法
方針はきまった。ちょうどいいところに今年の「現代詩手帖」1月号、「現代日本詩集2025」がある。わたしがこれを書いている一月十日現在、これが〈現代詩〉の総体である(他に「詩と思想」「ユリイカ」有象無象の同人詩誌などあるとはいえ、実質「現代詩手帖」こそが〈現代詩〉の前衛にして最後の砦というのが現状であろう、あくまで旅行者からみればそうである)。来月はいいすぎとしても、すくなくとも来年の「現代日本詩集2026」が出るころには「2025」はすでにアーカイヴであり、総体として扱うことは出来ない(観念の手続きとしても)。〈現代詩〉という対象の特殊性が、ここでは便利にはたらいてくれた。「現代日本詩集」と名づけた編集者にしても本望であろう(素人編集者としてのわたしの予想では)。全三九人の詩篇がある。ブロックⅠからⅥの世代順に列んでいる。本稿でもこのブロック分けを、効果を期待しないまま採用しよう。
さっそくあたまから論じていくが、ポイントは1の二つの条件をどう満たしているかの確認で、良し悪しは論外とする。すべて論じ了った時点から、〈現代詩〉の現在への、応答をなし、総論の〆とする。これはわたし自身の勉強のためにも、詩は全文書き写すこととする。雑誌ほぼ一冊分となるため多少は長くはなるが、一文芸ジャンルの一国を論じるにあたり、これが最もミニマルな方針と方法と思う。
一旅行者の手紙がそのまま開国要求となりえるか、だ。
序4:題名について
これから「現代日本詩集2025」の全三九篇を、全文書き写し(引用し)、論じていくが、そのさい作者名のみを提示する。これはある時から題名についてわたしの持つに至った考えによる。
一昨年令和五年九月、香川県丸亀市猪熊弦一郎現代美術館企画展「中園孔二 ソウルメイト」へ一週間通い詰めた。この展示は、二〇一五年に、二五歳で、高松市と坂出市の境の「槌の戸」と呼ばれる、そこだけ海底の孔のように水深く、竜宮城伝説の発祥地のひとつともいわれ、好漁場でもある、岬と沖の小島のあいだの三百メートルほどの海域を泳いで渡ろうとして溺死した(滞在中わたしは高松からレンタサイクルで訪れたが、雨上がりで岬ちかくの道一帯にヤマカガシが幾匹もとぐろをまいていて、画家が降りたという岬から岩場への小径も薮と化していたため、下へ降りることはためらわれた。ちなみに槌とは古代和語でへびのことをさす、そして岬の上からの「槌の戸」はさながらブラックホールのごとくゆっくりと大蛇のようにとぐろを巻いていた。わたし自らもそこに非常に惹きこまれながら、カナヅチとカカとスズメバチへの恐怖を言い訳に、眺めるに留まった。だが画家が、眺めるでは気が済まず泳いでみたくなった、気持もわからなくはなかったので悔しく、またすまない気がした。風景を、眺めるのではなく全身で体感する、そのからだでキャンバスに望む、この技法は同時にこの画家の宿命であり、たれも彼を岬のこちら側にひきとめることはできなかったとおもう。わたしは半ばこの画家に自らを同化せんとする傲倨を抱き、兄弟の絵を一枚ひとめ見るなり東京から香川まで飛んできた。三日間展覧会をみてから、ここまで来たがついにその背なかを、岬わきの砂浜から見送ることしかできず、ネカフェのブースに戻るとおもわず嗚咽が来た。ここで流した涙は自己愛につき、故人を偲んでではない、と抑え込むが、それは失敗した。かすかな詫びをこめ、旅のあいだに十数篇和製ソネットを綴ることしかできなかった)画家中園孔二の、絵画作品約二百点におよぶ過去最大規模の、回顧展を兼ねた個展。そこでわたしの図星が突かれたのは、最初の一点をのぞき、作品に題名がなかったことだ。作者註釈?もない。インタビュでそのことを訊ねられるとただ一言「必要ないから」。わたしは詩書きだが、そのときまで、疑いつつも、詩に題名をつけることをなしくずしで続けていた。なぜ、短歌や俳句には題名がないのに、「詩」にはあるのか。浅く考えれば、それは短歌と俳句は定型であり、「詩」は自由詩、すなわち非定型であるからだろう。ほんとうにそうか。そんなおり、たまさかにキルケゴールの『現代の批判』(岩波文庫)の冒頭ちかくの一行に出会う、「本質的な情熱は、つねにフォームをともなって発現する」。革命についての社会批評だが、わたしは詩論と受け取った(革命の勃興と藝術の発生をわたしは同源にみる)。そしてこう読み替える、「本質的な創作は、つねに一回限りの定型をなすとともに完遂する。これをもって作品の自立とする」。そこで題名とは、自立のための補助輪、本質的には〝必要ない〟甘え、いや元を質せば画商や美術館産れの非詩のち因襲と化し、藝術にすくう「他人」、死に至る病と勘づいた。
〝わたしこそすべてのひとびとのうちもつとも寂寥の底にあつたものだ いまわたしの頭冠にあらゆる名称をつけることをやめよ〟吉本隆明(「固有時との対話」より)
〝舞踏は、一度として起ったことのない必然の創造だ〟
〝舞踏とは、命懸けでつっ立ってる死体のことだ〟 土方巽
Ⅰ
イ 中村稔
ふと見遣ると魂がボロ布をいじっているので、
何をしているのか、と訊ねたら、魂が
羽をつくろっているんだ、また羽搏いてみようと思うんだ、
と答えるから、冗談もいい加減にしてもらいたいね、と言ったのだ。
魂は真顔になって、あのさやさやと鳴るブナの林のそよぎが、
寄せては返し、返しては寄せる内湾のさざなみのうねりが、
どうしても忘れられないから、またこの島の上空を飛ぶことにした、
と言うので、そんな羽で飛べるはずもない、と教えてやったのだ。
おまえは夢をみたのだよ、と魂に言い聞かせてやってのだ、
ぼくが聞いた、あのブナの林のそよぎが夢だと言うのか、
ぼくがまざまざと見た、あの内湾のさざなみのうねりが夢だというのか、
そんな莫迦なことがありゃしない、と魂が頑強に言いはるのだった。
それなら、勝手に夢をみてるがいい、うまく羽がつくろえたらね、
そう言って立ち去ろうとすると、羽のつくろいが難しいのだ、手伝ってよ、
と懇願したので、嫌だね、と答えると、魂が夢も見られない、憐れな奴、
と罵って、どこかへ消えていったのだ。行衛知れぬ、魂の奴が懐かしいな。
今年九八歳になる最年長〈現代詩〉人の手になる作品だが、語り手は、飛びたいというおのが魂にたいし、「
冗談もいい加減にしてもらいたいね」といえる
現実志向を持っているならば、何歳であってもあてはまる、普遍的な〈私〉といえる。つまり、だれが読んでも、読み手はこれを自らの語りとしてよみうる。それを可能にして手法は、語り手の〈主語〉(厳密にいえば、英語のIにあたるような機能をもつ語をニホン語は持たない)にあたる人称語をいっさい、提示しないことだ。「魂」だけが、「魂
(三人称)」、「ぼく
(間接話法における一人称)」「おまえ
(間接話法における二人称)」、というふうに明示されている。この手法自体は口語近代文としてべつに何もあたらしくないが、全篇徹底して語り手の人称がないのはやや珍しい。さらに、本来であれば、魂の方が人称をもたぬ〈意識以前〉で、〈私〉のほうが人称をもつはずである。それを逆転させるというモチフのみで、この詩はできあがっているといって過言ではない。この詩はニホン語でなくては、少なくとも印欧語族では書くことができない。ゆえに、この詩における「魂」もまた、翻訳不能である(soulでもspiritでもanimaでもghostでもない)。翻訳不能ではあるが、この「魂」が普遍へと届いているといえるのは、〈主語〉ナシで一言語において全篇成立させえたこと、それこそが、魂ナシでは成り立たぬニホン語
てふ〈もの〉それ自体を暗示しているからだ。もしもカントのいう〝物自体〟が普遍でないとすれば、〈普遍〉という概念そのものがナンセンスとなる。その場合、普遍的な意味での詩ということもまたナンセンスにすぎず、それを論じるのもまた無意味であろう。そしてこの詩は、その無意味をわたしたちに突きつける。「
魂が夢も見られない、憐れな奴、/と罵って、どこかへ消えていったのだ」。普遍もまた一つの夢だ。カントもまた夢想家だ。「
そんな羽で飛べるはずもない、と教えてやったのだ」とはまさに『純粋理性批判』という書物のせりふにふさわしい。この書物はけっして人間は飛べないといっていない。ニーチェがいった〝人間とは、間断なく自らを踏み越えていくなにかである〟は、すでにカントの夢想を翻訳したにすぎまい。「人間」という
概念をうみ「近代」をつくったともいわれる
(フーコー)この哲学者は、夢想においては「現代」を描いていたとおもう。その「現代」がいまわたしたちの生きている〈現代〉かは、わからない。その夢は「
行衛知れぬ」。この詩の射程は巨大である。モチフとしては、普遍としての名付け得ぬ「魂」を描いており、同時にその「魂」と〈現代〉のわたしたちのわざわざいうまでもないどこにでもある関係を、平易な言葉で表現しているのに、なぜか古臭さをかんじさせない。なぜだろう? 普遍はそれが表わされるときいつも新しい、といっただけではなにも言ったことにはならない気がする。この詩が詩であるとは認めるが、「現代日本詩集2025」の先陣を切る〈現代〉の
現-在の言語表現といえるのか?(わたしが編集者であったら、さすがに最年長の実力派だとはいえ、「現代日本詩集2025」というタイトルの特集で、ただ古典的であるにすぎぬ詩を巻頭に配備することはまずありえないとおもう。この〈現代詩〉という村では、年功序列が依然しきたりなのかどうか知らんが、そうだとすれば〈旧時代詩〉と名のったほうがよくないか。いや老害を排除しないと示すことで、〈現代〉を更新しているのか? それではおもしろくない、この詩が先頭なのには、もっと積極的な主張を推理してみたい。事実より想像をとろう)。
おまえは夢をみたのだよ、と魂に言い聞かせてやってのだ、
この「
おまえは夢をみたのだよ」は、きおくで引用するがアニメ映画『君の名は。』の、「おまえは夢をみているね」という主人公
瀧くんにたいする老巫女
一葉のセリフを彷彿とさせる。この言葉をきくやいなや、瀧とヒロイン
三葉の入れ替わりの夢から瀧くんは目が覚める。
【以下ネタバレ注意】この時、すでに瀧くんの現在からは三年前に、三葉は隕石落下災害で亡くなっている。瀧くんが見た夢は、ふつうの夢でなく、現実の三年前の、時空を隔てた少女と「魂」が入れ替わるという、特殊な夢である。このとき三葉もまた自らのすでに死んでいる三年後の世界に住む少年の体に「魂」として入り込んでいる。だからさきの一葉もまた、瀧くんの夢のなかの人物でなく、三年前の世界の現実の住人であり、彼女の視点からはこのとき孫娘の三葉の「魂」は「
行衛知れぬ」状態となっている。
ところで、わたしたちは自らの魂を見たり、人間に語りかけるように、話しかけたりすることは出来ぬ、ましてや「
ふと見遣ると魂がボロ布をいじっている」ことなど現実には夢の中でしかあり得ない。つまりこの語り手は夢の中で「魂」にたいし「
おまえは夢をみたのだよ」といっている。
さてこの語り手〈私〉の夢はどこでさめるのか。
それなら、勝手に夢をみてるがいい、うまく羽がつくろえたらね、/そう言って立ち去ろうとすると、羽のつくろいが難しいのだ、手伝ってよ、/と懇願したので、嫌だね、と答えると、魂が夢も見られない、憐れな奴、/と罵って、どこかへ消えていったのだ。(…)
この最終聯に、作者は爆弾を仕掛けている。「
魂が夢も見られない、憐れな奴、/と罵って、」とあるが、意味が二つとれる。《魂が「夢も見られない、憐れな奴」と罵って》か、《(魂が)「魂が夢も見られない、憐れな奴」と罵って》か。どちらかは決定できない、決定できぬあいだにわたしたちは「魂」を見失う。ここで逆転がおきる。非人称の語り手だった〈私〉と「魂」が入れ替わる。〈わたし〉は「魂」を見失う。「
立ち去ろうと」したが、「
消えていった」のは「魂」であった。「
立ち去ろうと」した? どこへ。夢の外、あるいは詩の外、現実へである。しかし「
消えていった」のは「魂」だ。〈私〉こそ夢の中に残され、同時に現実から「
行衛知れ」ずになっている魂なのだ。「
何をしているのか」。
ふと見遣ると魂がボロ布をいじっているので、
何をしているのか、と訊ねたら、魂が
羽をつくろっているんだ、また羽搏いてみようと思うんだ、
と答えるから、冗談もいい加減にしてもらいたいね、と言ったのだ。
よくよめば一聯目、「
魂が」でわざと改行し、三行目に「魂」の台詞を配置し、四行目で受けることで、ここは直接話法となっている。最終聯をきかせるための下拵えである。それとは別に、この「
魂が」で切られた下の余白は、どこか空恐ろしい空白をはらんでいる。この余白に、九八歳の最年長プレイヤー中村稔の、詩人としての全生涯の重量がかけられているといっていい気がする。ここには「魂」といって擬人化したり、対象化することを、断固に拒絶するなにかがある。そして、そのなにかで、わたしたちのこのリアルにアンリアルな〈現代〉の空白を斬り殺さんとするまえの静寂をかんじる。いったいかれは
何をしているのか。
よくよくよめば「
冗談もいい加減にしてもらいたいね、と言ったの」はいったいたれなのか。そもそも、「
冗談もいい加減にしてもらいたいね、と言ったのだ。」と言っているのはたれなのか。《ふと見遣ると(〈私〉が)魂
がボロ布をいじっているので、(魂が)「何をしているのか」と訊ねたら、「羽をつくろっているんだ、また羽搏いてみようと思うんだ」と(〈私〉が)答えるから、(魂が)「冗談もいい加減にしてもらいたいね」と言ったのだ》と〈
私〉
でない語り手が言っているのではないだろうか。──こだまでせうか。
すると二聯目はこうだ、《
魂は真顔になって、(〈私〉が)「あのさやさやと鳴るブナの林のそよぎが、寄せては返し、返しては寄せる内湾のさざなみのうねりが、どうしても忘れられないから、またこの島の上空を飛ぶことにした」と言うので、「そんな羽で飛べるはずもない」と
教えてやったのだ。》しかし、これだと、三聯目一行目の、「
おまえは夢をみたのだよ、と魂に言い聞かせてやってのだ、」によく意味がつながらない。だからこうなのだ、《
魂は真顔になって、(
あのさやさやと鳴るブナの林のそよぎが)「寄せては返し、返しては寄せる内湾のさざなみのうねりが、どうしても忘れられないから、またこの島の上空を飛ぶことにした」と言うので、「そんな羽で飛べるはずもない」と
教えてやったのだ。》つまり、一聯目と二聯目は、別の時空間が並列されている。その証拠に、聯末の「
と言ったのだ。」「
と教えてやったのだ。」が対句を形成しており、これは古代からの詩の常套法である。するとこの「魂」という登場
物はたんに〈私〉の魂というのではないように聞こえてくる。この「魂の奴」は、「
あのさやさやと鳴るブナの林のそよぎ」に「
教えてや」ることもできる、風の又三郎みたいな奴なのではないか。「
そよぎ」にたいし、「
そんな羽で飛べるはずもない」というのだ。しかもこの「
そよぎ」は「
うねり」が忘れられないという。なんという、アニミズム世界かここは。言葉自体が生きている「
この島」とはなんという島か。
これでようやく、三聯目の「
おまえは夢をみたのだよ、と魂に言い聞かせてやってのだ、」を言ったのが〈私〉だとわかる。三聯目は、一聯目と同じ場面からのつづきであり、二聯目は「魂」の見た夢ということになる。《
ぼくが聞いた、あのブナの林のそよぎが夢だと言うのか、/
ぼくがまざまざと見た、あの内湾のさざなみのうねりが夢だというのか、/そんな莫迦なことがありゃしない、と魂が頑強に言いはるのだった。》これはそのままとっていい。四聯目はどうか。
〈私〉 おまえは夢をみたのだよ、
「魂」 ぼくが聞いた、あのブナの林の「そよぎ」が夢だと言うのか、
ぼくがまざまざと見た、あの内湾のさざなみの「うねり」が夢だというのか、
そんな莫迦なことがありゃしない、[ここまで三聯目]
〈私〉 それなら、勝手に夢をみてるがいい、
「魂」 うまく羽がつくろえたらね、(立ち去ろうとする)
〈私〉 羽のつくろいが難しいのだ、手伝ってよ、
「魂」 嫌だね、(消えながら)夢も見られない、憐れな奴、
一聯目から筋書きをしたて直せばこうだ。「
魂がボロ布」(言草)をいじっている詩人の〈私〉のもとに、「魂の奴」がらってきて、「
何をしているのか」と訊ねるので、詩人は「
羽をつくろっているんだ、また羽搏いてみようと思うんだ」と答える。すると魂は、「へえ、
羽をつくろっているんだ、また羽搏いてみようと思うんだ」とこだましてくる。少し間をおいてから、「
冗談もいい加減にしてもらいたいね、
ぼくといえば「
また飛ぶことにした」という「
そよぎ」に、
そんな羽で飛べるはずもないと教えてやったのだ。たかが文字つかいの詩人ごときが飛べるはずもない」。すると詩人は、「そんなのは夢さ。いうはやすしでそれをいざ詩につくろうのが難しいのだ」という。魂は、「ふん、
夢も見られなきゃ、
つくろいもくそもねえさ」と言って
消えていった。いなくなってみたらやっぱり
懐かしいなと詩人は懐かしむ。
この「魂」は、詩を書かない、又三郎とかキリストみたいな奴なのだろう。声言葉だけの世界に生きている。文字をおぼえた詩人は(そもそも詩が文字のあとに生まれてる)、なにをいったって、詩は
つくろうので、たんに夢みることとはちがうのだ、「わたしも詩をつくろってみよかな、
観念ならたくさんあるのだ」という画家ドガにたいし、「詩は言葉でつくろうのですよ」と詩人マラルメがいったように。だが、言葉だけで
つくろうのではない。
夢がなければただの生成にすぎない。「魂」はいう、現実は、文字で書かれた詩のことなんかじゃない、
夢をときみが言う、「
そよぎ」が「
うねり」にまた会いたくて飛ぶことにしたなどという夢をみ羽つくろう「
この島」こそほんとうの現実なのだ、
きみもみたろ?──いきおい順番をまたぐが、モチフをともにする次の詩へ渡る(この詩にはふたたび還ってくるだろう)。
ト 藤井貞和
言葉のない世界、と言うと、
亡友が怒りました。
古代か何かの空をいつも盗作しているような、
おまえにそれを言われたくねえ
子供の日、二つの夕日が涙でにじむ、
そこを言いあらわす言葉があればよいのに
すると亡友は、
喧嘩別れのままでしたが、
空のなかほどの白い繭を二つ、
ほどいて、わたしに預けました。
おまえはこれを持って「いにな」(いなくなれ)
日本語なんか「でえっ嫌いだ」と、
つい、わたしの口走るところとなり、
喧嘩別れです。 でえっ
文字のない世界、と
わたしが言うと、
亡友はまた怒りました
文字を前提にして、
文字のない世界とは、
その言い方を許せねえ
まだこの世に、
文字は生まれてなくて、と言うと、
ない文字なのに、生まれると、
考えることはできないはずだと、
また亡友は怒ります
わたしにも怒りが感染(うつ)って、
ついに文字はなくなりました
ふわりと、あれは白い雲の空で、
何もない世界です
何もない世界だと、
私の考えた企画を壊してなきものにした亡友よ、
まもなく私も行きます。
文字を知らないそちらへ
……空の灰よ、音声の降るところ、
灰、「はい」。 よい返辞だね、
亡友はどこからか声を挙げる。
「どこ」。 ああ、どこね。 そう、どこなんだ。
きみは何者よ。 うん、きみは何者だ。
「何ではない」。 そう、何ではないんだ。
「きみは、だれである。 かつ、だれではない」。
なるほど、Nobodyだ。
「なんぞ」。 灰のなぞ?
「はい」。 返辞はよいけど、
どこにいる、灰よ。
「どこ」。 そうなんだ、どこである。
深いなぞだね、灰の正体。
「灰って、背理」。 それなんだ、
Nobodyがゆく。 きみの背理だ。
「ある」。 そう、あるだけなんだ。
「はい」。 うれしげにきみは応える
これでは喧嘩別れになるな。
何もない世界だと、
私の考えた企画を壊してなきものにした亡友よ、
まもなく私も行きます。
文字を知らないそちらへ
わたしはさきに、モチフをともにするといったが、詩の作り方は、まったくちがう。二聯目、
子供の日、二つの夕日が涙でにじむ、
そこを言いあらわす言葉があればよいのに
一行目は暗喩(メタファ)でできている。中村稔の詩では、たしかにふつうにいう比喩は全篇つかわれているが、ここでいう暗喩とは質がちがう。いわば、全篇における、「魂」と語り手(人称ナシ)の会話劇それじたいで何かに「
背理」しているといったふうである。そして「
背理」の
背つまり詩の全行においては、夢の中の出来事のように、そして夢をみているうちはそれが夢と気づかぬように、比喩は比喩でなく、たとえていえば小説の地の文が、その虚構のなかでは実際にあった(現実にない)ことを、三葉はこうした、瀧くんはこういった、と語るように機能している。だから、「
ふと見遣ると魂がボロ布をいじっている」とあれば、「魂」という作中人物が、比喩でなく、
ボロ布をいじっている。「
羽をつくろっているんだ」と「魂」がいうとき、ここは「
ボロ布」の比喩としての「羽」でなく、語り手には「
ボロ布」と見えたそれが、「魂」がつくろっているの自身の
羽であったということだ。いっぽう明白に、藤井の二聯一行目は、そう暗喩するしかない「
そこ」をいっている。しかもこの暗喩は不完全であり、「
そこを言いあらわす言葉があればよいのに」、いや不完全というより、暗喩では原理的にどうやっても言い切れない「
そこを言いあらわす言葉」を、語り手は切望している。「
日本語なんか「でえっ嫌いだ」と、/つい、わたしの口走るところとなり、/喧嘩別れです。」
さて、それを暗喩として表現できないとすれば、詩篇をもってするほかない。ここで「
わたし」と「亡友」の
喧嘩が「
言葉」の対話として構成される。そして対話を、現実の「
私」が、「亡友」へ呼びかける。この全体は中村稔の詩と同じようには何かに「
背理」している気配をかんじない。
この詩の山は、いうまでもなく、「
……空の灰よ、」からはじまる十聯目である。ここを成り立たせるための、ほかは構成ととっていい。「
そこを言いあらわす言葉」が「
日本語」にはないと嘆じる「私」(劇の手前の発語ととる)の、もがき、「
そこを言いあわらす言葉」自体ではないが、そのまだない「
言葉」を生むための
現-在の詩への挑戦である。
ところで、中村の詩と藤井の詩とのあきらかなちがいは、音読してみるとすぐにわかる。藤井のがリズミカルに詠めるのにたいし、中村のは息継ぎ困難、すらり詠みきることが難しいはずだ。藤井の詩の詠み
やすさを象徴しているのが、さきの一行目、「
子供の日、二つの夕日が涙でにじむ、」。
こどものひ〔五〕、ふたつのゆうひが〔七+一〕なみだでにじむ〔七〕、
一般に短歌は、五七五(上の句)と七七(下の句)とでできているといわれる。ただこの上の句と下の句の句切れの位置には時代で変調があり、「五七、五七七」「五七五七、七」の二句切れ四句切れが萬葉集(奈良時代)で、五七調ともいわれ、古今集(平安時代)からは「五七五、七七」の三句切れがメインとなり、そこに新古今集(鎌倉時代)でもっとも遅れて「五、七五七七」の初句切れがでてくる、これを七五調といい、明治時代の新体詩も多くこの七五調でなされた。五七調のほうは一目瞭然だが、
短歌の七五調は、五七と続きそうなとこで切れ〝、〟がはさまる「五、七」調といえばわかりよいとおもう。新体詩にはこの切れがない。
まだあげそめし まえがみの
りんごのもとに みえしとき
まえにさしたる はなぐしの
はなあるきみと おもひけり
(「はつこい」しまざきとうそん いちれんめ)
句切れとは、息つぎのポイントで、そのために多く意味の切れともなっている(この優先順序と思う)。短歌定型のととのう過程では、もとは一人ではなく、上の句と下の句で別のひとが声を重ねてよんだらしい。
折口信夫の説では、まず片歌とよばれる「五七七」を二人が問答する形があり、それを一人で詠むようになったのを
旋頭歌という。二人でひとつの意味(問と答との対)を作ったのが、ここで一人でする自問自答のかたちとなったとし、ここに短歌句切れの発祥をみている。一方リズム面では、「五七、五七、…」と繰り返したのち、「…五七、七」とむすばれる長歌から、その終結部「五七、五七、七」をとって、長歌で摑まれた抒情を切り詰めて、あるいは比喩してよんだ
反歌が生まれ、旋頭歌ゆらいの意味面の句切れと合わせ「五七、五七七」に落ち着いていったのではないかという(わたしの解釈)。
そこをいい〔五〕あらわすことばが〔七+一〕あればよいのに〔七〕
十聯目の奇妙な「亡友」と「わたし」(人称ナシ)の問答の前に、この二聯目がキイになるとおもう。「私」が二聯目をいうと、三聯目で「亡友」が、「
空のなかほどの白い繭を二つ、/ほどいて、わたしに預け」、「
おまえはこれを持って「いにな」(いなくなれ)」といい、四聯目で「わたし」は「
日本語なんか「でえっ嫌いだ」と、つい」、「
口走るところとなり、/喧嘩別れ」となる。「
二つ、/ほどいて」「
預け」られた「
空のなかほどの白い繭」が、十聯目のカギとおもうのだ。二聯目の詩法から十聯目の新たな詩法への飛躍が、この詩の、「亡友」へ呼びかけられる「
言葉」と。
子供の日、二つの夕日が涙でにじむ、 〔五、七(+一)七、〕
そこを言いあらわす言葉があればよいのに 〔五七(+一)七〕
「
古代か何かの空をいつも盗作しているような」語り手が、古典歌の世界に無知なはずがない。むしろ「
でえっ嫌い」になるくらい知悉しているとみたほうがいい。推理しよう。
意味の構造としては、一行目が上の句、二行目が下の句で、「五七七、五七七」をひとりでよむ旋頭歌ゆらいの短歌の風景描写(上の句)心情吐露(下の句)というかたちがもちいられている。このとき上の句を下の句の喩的表現とみなす。この喩的表現は、下の句の心情吐露を強く響かせ、現代ラップでいうところのパンチラインとするための前置といえる。そしてこの二行のもっとも重たい意味を負っているのが「
そこ」である。重たいというより底が抜けてる。
いちおうリズムの構造もみておけば、一行目は「五、七」調すなわち七五調で、平安以降のリズムである。二行目は、「五七、
五七七」の下の句にあたり、奈良時代とそれ以前の五七調だ、そしてリズムの継ぎ目がわからないくらい一気に読み
下されている。「
日本語」のリズムが読み手の意識にどれくらいはたらきかけるかはまだ感性に訴えるほかないが、とりあえずは構造てきには古今以後(七五)から萬葉(五七)への遡行がみてとれるといえる。さらに萬葉以前には、自由リズム時代があったという
(萩原朔太郎『詩の原理』)。
少女の床のべに我がおきし劔の太刀 その太刀はや
これは古事記のヤマトタケルの辞世の歌とされるが、元、土地の有名な民間伝承歌であったのを、英雄にひもづけたとおもわれる。古事記には、すでに
短歌形式がみられるが、その最新式のリズムが、英雄の白鳥歌にあてられなかったのはなぜか。すでに文字が入ってからの作歌とはわかるが、芝居の台詞じみた
所作まで見えるのは、現代のさかしらか。古代人の
情熱がよんだ一回限りの
定型、声と文字との渚で。
そこを言いあらわす言葉があればよいのに
この二行目はいわば
隠れ五七調だが、
自由リズム時代に遡行てきに一歩踏み込んでいる響きがする。そこは「
言葉なき世界」から一歩譲った「
文字なき世界」への
槌の
戸だ。
次号へつづく