『かげふみ』
ぼくはみんなと影踏みをした
夕が暮れなずむにつれて
影はどんどん延びていつた
すると 踏んづけやすいのだ
ひとりが歸つて また減つて
ぼくと きみとだけになる
鬼役と逃げ役の 仲むつまじき交代制
ぼくらはちひさな せかいだつた
きみがとつぜん居なくなつて
せかいに影は ぼくひとり
いつしかぼくは ぼくの影を追つた
駆けまわり追ひ詰め 飛びかかる
ぼくはぼくの影を 永遠に踏めない
「鬼さんこちら」とぼくが呼ぶ
つま先立てば 影は細くのびる
鹿の子みたいな 軽やかなステツプで
追ひかけ 追ひつき また離される
気づけば夜が真後ろまで迫り
ぼくはただ焦りと悔しさとで
胸がいつぱいになりながら
影か夜かもわからない足許を
追ひかけ 追ひつき また離される
夜紛ひのぼくは ぼくだつた夜の翳を
ひたすらに 軽やかなステツプで。
『きつかけ』
幼い頃の君は儚いものが好きだつた
黒板によく絵を描いては
先生に叱られながら 消されてゐた
それでも舞ひあがるチヨークの粉を
ぼくは夢中で見惚れてゐたつけな
「どうせ消されるのに、なんで描くの」
君は戸惑ひながら笑つて
「どうせ消されるから、思ひつきり描けるの」
夏みたいな人。
君の生き方は決まつてゐたのかもしれない。
あの時の表情を、ぼくはわすれない。
『さびしげな太陽』
さびしげな太陽を視たのはいつの日だつたか
君と最期の別れを告げた黄昏れか
才能が涸れてしまつた三月の真昼か
小鳥の卵を孵化させたことがあつた
ちひさな雛は、私を親として慕つた
しかし私に羽毛はなく
付き添ふほどの社会的余裕さへなかつた
ある朝、目が醒めると雛は
ぢつと固く目をつぶつて顫へてゐた
私の掌のなかで、私の体温も受容れず
雛は孤高のままで、美しく逝つた。
さびしげな太陽を視たのはいつの日だつたか
君の汚名を雪げなかつたから視えた
稜線の向ふには言葉となるべき 空
買い物の途中、誰かが落とした財布のなかには
レシートとたくさんの名刺が。
お札ほど有名にならなければ、それは盗られず
君が落とした人生を思はせた。
今日の夕日にあのさびしさはなく
いつまでも、限られた空の中を
サンダルくらいなら上げてもいいと思つた。
「明日、天気になあれ」
もう真つ暗な足許では、明日のことは
明日までわからないままだつた。
さびしげな太陽を視たのはいつの日だつたか
台風の過ぎ去つたあをい秋晴れの木漏れ日で
君がもうゐないことを識りながら 微睡んだ
『笑顔』
笑へるうちに笑つた顔のまま
なるべく景色のいい丘を選んで
君は夕焼けを視に行つた。
車の往来はあんまり多いのに
緑のおばさんは去年の秋に辞めた。
横断歩道は人の為にあつて、人の為にならず
すこしの遠回りをしてでも安全な
歩道橋を使ふことを強いられてゐた。
階段のたもとで車椅子の男が
無表情のまま、対岸を見つめてゐる。
君はやはり笑つた顔のまま
男を通り過ぎて昇つていつた。
かれにとつての非日常を、いとも容易く軽やかに。
丘へと続く階段のうへを、烏が寝所を目指し翔んでゆく。
彼らもやはり笑つたやうな鳴き聲で。
丘からの街はとても綺麗で
思ひ出の学校も、病院も一望できた。
思ひ出したやうに君は泣きはじめて、その後ろを
笑つた顔の子供が駆けていつた。
友達と長い階段をくだりながら
笑へるうちに笑つた顔のまま。
『韵きと匂ひ』
君、そんなに哀しんではいけない
世の中の惨状や人の悪意の機微
ゲリラ豪雨のやうな辛苦に
傘をさしたとて 地は泥濘む
木漏れ日のなかに微睡む
君の睫毛は翅憩む蝶のやうで
愕かせば翔び去つてしまひさうな
謐かなあたたかい昼さがり
轢かれた仔猫は雨のなか
ふたたび母の駆けつけるを待つ
君、もう苦しまないでおくれ
過去のすべてが現在につながり
ぼくらが出逢つた 幸福の日々
ほんのひと時のあはひ
君はもうゐなくなつてしまつたが
ほんたうに逢へなくなつてしまつたが
君がこれから苦しまず、哀しまずに
この青い空とぼくらとのあはひに
生きつづけられるやうに
そのために記憶はあり
韵きと匂ひはあり
そのうへ辺りの詩の世界で。
『敬具』
絵を描くことは
正しく世界を覧ることで
私の風景のなかに
君はもう居ない。
転がつたサンダルが何を表しても
世界は何事もなく
限られた空のなかを移らう。
その外側の君には意味がないとして
「明日、天気になあれ」は
誰のために。
きつと私と君とのあはひへの
祈りにも似た いや そのもの。
私たちはひとつの
夢の中に取り残されでもしたみたいに
絵を描いて また消えゆく
時間が意味を流し去らうとも
絵を描いて また消えゆく
無知な人となつて 種を蒔くやうに 祈るやうに。
御覧 いままた あの道すがら
君の匂ひは韵きとなつて
筆のリズムを与へてくれる。
哀しむ君のないやうに
苦しむ君のないやうに
これから私は君の詩の片隅で
君は私の絵の片隅で。