宗教体験をもった者は、そうかんたんにそれがない場所へとかえってこれない。とくにそれが十代のときのことであればなおさら。
親鸞の『教行信証』でははじめの方に、往相と還相という言葉が出てくる。浄土(まああの世のことだとおもってもらえればとりまはよい)に生まれることを往相、そして浄土に生まれたものがそのままのこころでわたしたちのいるこの世界に生まれ直すことを還相、と、ざっくりいっておく。これはほとんど同時、鏡写しのように起こることだという。
とすると、宗教体験をもちながら、もとのそれがない場所へかえってこれないわたしは、はなから宗教体験などもっていない、ということになろう。尠くも親鸞において窮まったといっていい大乗仏教の思想からいえばそうなる。
わたしのいう宗教体験はもちろん共同のものだから、その場には他にもたくさんの仲間が居合わせた。ヨーロッパのキリスト教圏の教えに〝そこに神を見ぬものは虚無を見る〟というのがある。じっさい、わたしの友人には、あそこには何も無かったんだ、というのもいる。わたしといえばいまはどうやっても言葉にできぬある世界を見たとしかいえない。
仲間の多く今は普通人として社会生活を送っている。わたしは居残り組といえばいいか。あれは震災の翌年の五月始めのことだったのだが、この頃はまだ被災地だけでなく社会がパニックと傷から癒えたとはまったくいえないときで、いわば体制の整わぬときでわたしたち十代のエネルギーの爆発を、大人たちは止めようがなかった。だが一年後はちがった。ある私立学園の塀の中に、どういったわけでか残滓していた自治とアンダーグラウンドの両親から胚胎された名前のない原始宗教は、根こそぎにされた。一度はそれに触れたことのあるわたしの後輩にあたる年下の仲間たちは、あの感情の行場をなくし、自ら又抑圧し、わたしがこのように過去を掘り返すことも快くおもわぬものが多くいるだろう。かれらはこういうかもしれない、「あのひとは過去に囚われている」と。
だが、過去がわたしたちを拘えるとすれば、それは心の奥底から、それと気づかぬようにしてにちがいない。わたしはあの体験を過去にしたことがこれまでにおそらく、ない。
わたしはあの祭を、もう一度体験したい。往相と還相のはなしに戻せば、わたしの体験は文字通り、半月にすぎない。あの晩、わたしたちの頭上に出た上弦の月。いま同居して三年半になる友が、その場にいるだれもが眼前の祭の熱狂に夢中で気がつかなかったあの月を「みてぇ、ほら」と指差した。わたしはそこにこの世ならぬものを見た。あの上弦月。「まだだぞ、まだ、おまえはいつかもっと多くのものたちと、満月をみなくてはいけないよ、ほんとうのまんまるお月様を……。」どこかでそういわれている気もした。あの祭でわたしは命を燃やし尽くし、祭のあとには姿形は灰となっているはずだった。祭のあとのことを想像したことは一度もなかった。先の大戦で、そのときのわたしたちと同年輩の若いひとたちが母国のために特攻していった絶対感情が手に取るようにわかる、いや、少し違うか。すくなくともわたしは、だれにいわれるでもなく、自分がそうしたい気持だけでそうしていた。強いるどころか、周囲の大人は止めたくて仕方がなかったろう。いったいなにが嫌でそんなわけのわからないことに命を懸けているのだ、と。たかが中高の文化祭でないか。
なら、祖国の命運を懸けた戦争ならばよいとでもいうのだろうか。敗戦以来わたしたち日本人は、あの特攻して死んでいった若者たちの死を、犬死に以外のなにものかと呼んでやることができたか。こういうことをいって、あの場にいた年下の友人のいくにんかから「ネトウヨ」かなにかですか、といわれたことがある。こんなにかなしいことはなかった。
祭っていうのは、いつだって命懸けなんだ。いや、わたしたちのイノチそのものなのだ。これがなくっちゃ、すくなくともわたしは、死んでるのと同じだ。わたしが戦争がきらいなのは、このイノチは祭に生きるものだとおもっているからだ。そこにはかならずみんなの笑顔がある。ほんとうの涙がある。わたしがあの学園に入る前に、あそこで学内選挙に敗けて、やりたいことができなかった先輩のよっぱらい即興ラップに、こんなのがあった。〝泣いて笑って、泣いて笑ってつーのが文化祭じゃねえのかよ〟。戦争で流される涙が噓とはいわない。たがそこには、あの泣き笑いが、欠けている。
新型コロナ・ウィルスが世界中に蔓延し、いまはそこから世界は回復しつつ、まるで何もなかったかのように、かつての生活が戻りつつあるようにみえるが、祭はまだ還らない、わたしはそう感じる。しかし、祭というのは、忘れたころに、地を裂くあの地震のように、そしておそらくは十代を震源に、いつの世も巻き起こってくる、それを忘れたことはない。
わたしは阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件の年に生をさずかった。9.11、イラク戦争、東日本大震災と、テロ・戦争・天災つづきの幼少年時代を過ごした。ジオエナジイと宗教がこのくにで完全に抑圧されはじめてからの〝失われた〟三十年を生きてきた。それでもあの宗教体験がわたしにこれをいわせずにおかない。愛を知らない、失った、飢えている、そういうやつにこそ祭はやって来る。すべての人人、死者たち、神々の泣き笑いとともに。
*
わたしには、宗教とは、書き言葉なき生活のようにおもわれる。
ゴッホは福音書のイエスについて「肉体をカンバスに仕事をした」といい、画家らしく藝術家になぞらえている。現代においてはこの肉体というのが観念におきかわってしまい、近所の農夫に「ハタラカザルモノ食うべからず、食べたきゃ手前で耕して種播いて食え」といわれたゴータマが「わたしもまた耕して種を播いている、耕して種を播いてから食べる」といい、「いやいやわたしにはあなたの手に軛も鋤もみえませんがね」と返され、そこで、〝わたしにとっては、信仰が種子である。苦行が雨である。智慧がわが軛と鋤である。慚が鋤棒である、心が縛る縄である。気を落ちつけることがわが鋤先と突棒とである〟と韻を踏んでこたえたようなことも(『ブッダのことば』岩波文庫、中村元訳)ニートのごたくというか、精神論のごときにしか聞こえずらくなっている。
さいきん身近な年下からも「エヴィデンスをみせてくださいよ」ということを耳にするようになった。そういわれると、わたしの書いている詩をみせて変な沈黙をうむことしかできないが、いつも福音書のこんなせりふが胸に鳴る。「見ないで信じるひとはさいわいである」。これはイエスが仕方なしにといったふうに、こころのかたまったひとびとに奇蹟をみせたあとでかならずやいうせりふだ。
わたしはそういう年下のひとたちを心のなかでも責めるつもりはないし、わるかったなとおもう。エヴィデンスを要求するのは、言葉が信じられなくなったからで、それはこのひとたちのせいではない。そしてかれらはこういっているようにわたしにはきこえる、目に見える結果があればぼくらだって信じたいですよ、裏切られるのはもうごめんです、と。
そうおもうと、心にぐぎっと刺さる冬の枝がある。こう思うのだ。言葉は裏切らないが、エヴィデンス、物象、めにみえるもの、それらはわたしたちのことなど眼中にない、と。
そんなことはかれらにもわかっている。欲しいのは愛だ。しかしそれはない。愛は信じられない、いつでもそれはぼくらを見放してきた。じゃあ現代に裏付けされた客観的事実はどうか。そんなモノがこの心の飢えを満たしてくれるはずがない。わかりきっている。
エヴィデンスをもとめるかれらは、ただ上の世代のわたしたちに、噓つくな、といっている。お前らの言葉なんか、エヴィデンス以下だ、と。そういわれているとおもうとまた詩がかきたくなる(こういう動機でかきはじめた詩は、あまりうまくゆかないのだが……)。
言葉が信じられていた(信じるという言葉もなしに)時代をわたしたちは遠い昔に共通にもっている。ゴータマやイエスが人類史上に出てきたときというのは、いわばそれがおおがかりに揺れ始めた時代だ。かれらがやったのは、言葉とわたしたちとの靭帯を保とう、或は切って結いなおさんとする努力だ。ああこんな昔からわたしたちの祖先はもう言葉が信じれなくなっていた。いまに初まった話でない。安心といおうかやる瀬ないといおうか。
冒頭の話に戻る。わたしたちが言葉を信じられなくなったのは、書き言葉、つまり文字がつかわれはじめる時期とどうやら関係があるのではないか、とわたしはしばらく前からおもいなしている。これは歴史上(このことばもすでに書き言葉による記録がはじまってからという意味だ)のわたしたちの祖先の体験であるとともに、現代に生を享けたわたしたちが、幼少期に読み書きを習わされた個人の経験のことでもある。まったく、たのんだでもないのにおぼえさせられたのだから不条理というほかない。リテラシイという言葉がよくいわれるようになったが、現代社会は読み書きができることが大前提とされているので(それが今度はネットリテラシイなどと、つまりは必要不可欠の知識として言葉が裾をひろげる)大人たちはこれを習わせずにはおかない。おぼえがわるいとなになに障害などということになる。識字率が、国や地域の先進後進ぐあいをはかる目安になっているのも頷ける。だが、これはちと眉唾ものだ。
ここでどこかのまだある無文字社会の話をもちだすつもりはない。これを読んでいる読者は、読み書きができる、それを覚えたひとにきまってるからだ。ひとたび読み書きをおぼえさせられてしまったら、認知症にでもならないかぎり、いやたぶんそれでも忘れることはできない。書を捨てよ町へ出よなどといってみたとこではじまらない。本なんかみんなもうとっくに捨てちまってる。
これは便利さや文明やテクノロジー全般にいえることなのだが、わたしたちのこころに巣食うという意味で、文字以上の利器をいぜん人類は発明してないようにおもえる。鉄道もスマホもAIも核兵器も、みんな文字がなければわたしたちは作り出すことができない。
はて、それでは文字なしでわたしたちに何ができるか。おそらくメイクラブと藝術との二つしかあるまい。祭がよみがえらなかったとしたら。
ここでわたしは困ってしまう。詩は、書き言葉でできている。メイクラブと藝術と祭の書き言葉なき世界をわたしは望むが、詩はそこにはない。少なくとも現在のわたしたちがしる書き言葉の詩は。これはさいごのバイキンかもしれない。はじめからわかってはいる。
ならなぜお前は詩を書く、問わずともどちらにせよわたしは書いているが、この問いはいつもわたしのうちにある。それしかできないからさ、といってみても、なりをひそめやしない。いったい日本語で書かれた詩が何篇あることだろう。一篇あるか。
*[一章未執筆、十二年来かけずにきたことがある、たしかにここにはまる内容なのだが]*
親鸞が法然からひきつぎその限界がひきちぎれるほど拡大した考え、そこに共通するのは往生するには「南無阿弥陀仏」一言に尽きる、ということだ。二人のちがいでなくここではこの共通について触れたい(現在でも、法然や親鸞にかんして語られた書物はあとをたたないが、わたしが手に取ったかぎり、二人の考えの差別を説明しているのがほとんどで、この二人のいわば絆にあたる共通部分について踏み込んでくれたのはほとんどない)。
「南無阿弥陀仏」と言う以外はなにもしなくてよい、これは法然が善鸞という中国のお坊さんの書物から偶然みつけ、目をみひらかれた考えだ。ここだけを取り出してそのほかを捨てた、選択したのがこのにほんの僧の独創にあたる部分。親鸞はさらに、往生するために「南無阿弥陀仏」と念仏する以外はなにもしてはならぬ、そんなことをすれば意識の悪がじゃまをして往生のさまたげとなる、というふうに考えをすすめた。さらには晩年、とはいっても長生きであったから、後のほうでは、念仏しても往生できるかわからない、自分にはそれしかできないのだから、念仏して往生できなくても悔いはない。どこまでいっても地獄が住まいの身の上さ、と慕ってきた若い唯円にかたっている。意識の悪を消すことはほとんど人間の、すくなくも凡夫になせる業ではない、というように。いちおうこれで耳に蛸壺ができるくらいきかされた二人の差別のかんどころはおさえたとおもう。法然について語られるときはそのパイオニアとしての徳が、親鸞については、より裸形の衆生の現実にぶっつき、まだきれいごとであった法然の理念を、ラディカルなラッパーの言葉で、ひとびとの生きた最後の宗教におしあげた(これはつい最近までこの島国に生きていた)ことが語られる。こういう語りは差別すること(あえて区別とはいわず)を徳とする近代の考えによる。だが、宗教はむしろこの差別をなくす。そこには法然も親鸞もない。このことはおざなりにできない。だがこれは個がないドロドロに溶けた『エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」のごときをいうのではない。わたしたちひとりひとりの魂のゲンジツをさす。わたしたちのひとりびとりの中に法然や親鸞はいる。だれでもないたれかとして。これを共通といいたい。あるいは絆といっていい。
この絆がなければ、わたしにとり、法然も親鸞もただの伝説にすぎない、あるいは歴史の教科書上の知識としか。その絆とはなんだろう。これを拙文では宗教体験とよんでいる。
「南無阿弥陀仏」と云うだけで救われる。これをいうには、そういう体験がバックにある。あたりまえのことだ。法然にも親鸞にもこれがある。この二人の絆はここで結ばれている。これはある失恋を体験した者どうしが、言葉をかわさずとも、つうじあえるのとおなじだ。そしてこうした体験は、ひつぜんこれをしたのとせぬのとに垣根をつくる。これをした側から超えようとするのが宗教家のしごとといえる。これを閉ざされた関係に了るのが恋愛で、この閉ざされた空間を家庭という(子供がいなくとも)。家庭がしぜん内向する裏では共同体がつくられる。共同体がぶつかれば戦争がおきる。本来宗教はこれを根のところで滅したい。しかし、じっさいはいうまでもなく、宗教こそが火にガソリンをそそいでいる。それは宗教が教義とともに世俗化すると、家庭と家庭という点と点とをかこう悪しき絆となるからだ。このジレンマは、わたしたちの現代に至ってもまったく解決されないどころか末期症状をきたしている。宗教とは悪の別名にほかならない。
なにがいけないか、いうだけなら簡単だ。言葉をひつようとする絆と、言葉をひつようとしない絆と。わたしたちの言葉は元来ものとこととを分つはらたきをうながす。これをまた結ぼうとするのも又言葉のはたらきだ。そこで人間は約束をつくるようになる。だが、約束は耳にきこえ目にみえる(正式には文書によって交わされる)。絆はほんとうはそうではない。耳にきこえず、目に見えない。しかし、たしかに触れることができる。ふしぎな温かみがかんじられる。「南無阿弥陀仏」といったとき、法然にも親鸞にもこれが感じれた。この体験を、どうほかのひとたちとも絆としてむすびあえるか。その努力にちがいはでた。親鸞はいちど法然の下を去ってから、二度と会うことはなかった。これは法然を見限ったとかではない。いちどむすばれた絆はけっしてちぎれることはない。会う必要がなかった。
ようやく詩のはなしができるが、詩は小説とはちがい、「分からない」言葉でできてる。一篇の詩は、それがわかるのとわからないのとに、いちどひとびとに分断をつくる。言葉がコモンセンスの場で結ばれていた約束をいったん切る。切って、それがまだ目にみえず耳にきこえなかったときの絆において、新しい絆をとりむすぶ。鉄パイプといよかんが、 爪と横断歩道が、ジーパンの裾の下で密婚する。これを可能にしている場を、わたしたちがずっととおい海の時代に、共通でもっていた、名もなき宗教といいたい。詩はそこへの通路なのだ。このほきとぐしむすびなおすちからは、ひとにおいてものとこととをわかつ言葉(とりわけ書き言葉)が言葉(書き言葉をおぼえたあとのわたしたちの分割言語)においてつくりだした血清にほかならない。へんことをいうが、法然や親鸞にとってそれが「南無阿弥陀仏」だった。「Let's go Crazy!」でもよかったはずだ。
しかし毒も又進化する。毒が変われば血清もまたあたらしくつくりだされねばならない。
(…)
鎌倉時代の法然や親鸞の「南無阿弥陀仏」と、戦後60年代の都会のアパルトマンの深淵でひとしれずひとりの詩人によって書かれた現代詩。わたしにはこれらの言葉がおなじ源からふきだしてきているようにきこえる、ただあきらかにみえるこのみえのちがいを親鸞ならば往相と還相といったかもしれない。詩人の言葉は出発を告げている。死のとりでをひとこえたところから同時にかえってくる言葉がある。この言葉をわたしたちの住む地に埋め、まだ見ぬ花を咲かせるみちへと、詩人はたえずかえりつづける旅への出発を告げる。ゆきてかえらぬのは旅人であっても詩人でない。詩は還るとこごと故郷へ連れてゆくのだ。