フィールドワークとして生きる

村上陸人

 子供を持とうと思わないという人がいる。その理由を聞いてみると様々である。大変そう、育てられるか不安、自由でいられなくなる、などなど。私が出会ったなかで際立っていたのは、子供を持つことは良くないことだと思うというものだ。実は自分自身、かつてそれに近い感覚を持っていたことがある。子供を持つということは、世の中の苦しみを味わう人を増やすことになるので、良くないと思っていたことがある。苦しむだけなのだから、生まれないほうがマシであるという感覚である。反出生主義とも言うらしい。私自身の中でこの立場に対する感覚が最近変化してきた。いくつかの違和感を感じるようになった。

 まず、反出生主義についての私の理解を示す。生きることには快楽も苦痛も伴う。苦痛が存在しているのは悪いことだ。快楽が存在しているのは良いことだ。苦痛が存在していないことは良い。快楽が存在していないことは悪くない。ある者が存在すると、快楽も苦痛も存在する。ある者が存在しないと、快楽も苦痛も存在しない。快楽が存在しないのは悪くなく、苦痛が存在しないのは良いのだから、ある者は存在しないほうが良い。存在する人が新たに増えると、新たな快楽も苦痛も増える。存在する人が増えなければ、快楽も苦痛も増えない。快楽が増えないことは悪くなく、苦痛が増えないことは良いのだから、存在する人が増えないほうが良い。だから子供は持たないほうが良い。この論法で反出生主義に立つのがデイヴィッド・ベネターらしい。

 一つ目の違和感は、この論法の正しさへの疑問から生じる。快楽が存在しているのは良く、苦痛が存在していないのは良いというが、本当だろうか。快楽で満たされた世界を想像して気味の悪さを感じるのは私だけだろうか。そもそも、快楽は苦痛なしに存在し得るのだろうか。また、苦痛が存在しているのは悪いというが、本当だろうか。私はいくつかの苦痛の記憶を良い思い出として想起する。

 二つ目の違和感は、この論法が正しかったとしても感じてしまう。本当に存在しないほうが良かったとして、私に何ができるだろうか。日々の営みのなかで反出生主義はどのように実践可能だろうか。私の日々の営みは行き当たりばったりで、論理的な一貫性が全くない。むしろ一貫性のなさにこそ生きがいを感じている節もある。反出生主義を仮に正しいものとして受け止めても、日々の営みのなかで一貫して反出生主義を体現することはできず、言説を一貫して体現できないところに生きがいを見出してしまうだろう。

 三つ目の違和感も、反出生主義が正しくても感じてしまう類のものと思われる。既に存在している者を念頭においたときの実践不可能性と言えるかもしれない。日々の営みのなかで、私は私自身や他者の存在することあるいはしないことに、関与できるだろうか。できない。まず、私自身も他者も既に存在してしまっている。それに、私自身や他者の存在するか否かをコントロールすることは誰にもできない。だから、反出生主義がたとえ正しかったとしても、それを実践することに無理がある。日々の営みは捉えきることの出来ない無数の原因が連鎖した結果であって、私の意志や意図は無数の原因の一つにしか成り得ない。原因の一つにも満たないかもしれない。私が自由意志を持った主体というのは幻想だと思う。

 四つ目の違和感は、新たな存在との向き合い方に関する。特に、新たな存在が自分の子供の場合、私はその存在とどのような関係にあるのか。自分の子供の在り方に働きかけることが果たして可能なのか。不可能である。子供は持とうと思って持てるものでも、持つまいと思って持たないものでもない。この意味で私は「子供を持つ」という表現にも違和感を感じる。子供は自由意志によって獲得するものというより、計り知れぬ原因の連鎖が成す出来事のように思える。だから、私は子供の在り方、つまり、存在し始めるか否かおよびどのように存在するかに働きかけることができない。たとえ働きかけたとしても思い通りにならない。子の誕生は起きるものであって起こすものではない。彼や彼女は私ではない他者として起きる。彼や彼女にとって快感や苦痛がどのようなもので、どのような価値を帯びるかは、私が決めることではなく彼ら彼女らが生き感じることだと思う。

 以上の違和感は、デイヴィッド・ベネターを批判的に解説している森岡正博や上柿崇英の記事から勉強するなかで言語化された。細かく参照箇所を挙げられなかったが、クレジットさせていただきたい。

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