『シンフォニック・エッセイ』[続篇]

原凌

  その9「下伊那旅行記」 

 八月の下旬、長野県南部の下伊那を旅した。二泊三日の短い旅だったが、いくつか大事なものに出逢うことができた。

 下伊那は、原家の祖先が代々暮らした故郷である。秀雄のエッセイを通じて知ることとなった、原家ゆかりの地を見てみたいという思いが、旅のきっかけだった。旅では、そうしたゆかりの地を実際に訪れるとともに、今現在の飯田、下伊那の雰囲気も肌で感じることができた。

 エッセイを通じて、原家の人々を知るうちに感じていたこと。それは、それぞれが文化的なものを大切にしているということだった。文化的というと身も蓋もない感じだが、ただ生きているだけ、働いてお金を稼いで生活するだけでは満たされぬ心の要求を知っていたのだと思う。秀雄さんは哲学や音楽と共に生きていて、貞雄さんは絵画、彼等の伯父世代では、貞造さんが絵画を中心とした美術品・骨董品、四郎さんは能面を彫っていた。秀雄さんと貞雄さんは、畑をもって、土仕事を愛していた。秀雄さんたちの祖父、つまりぼくの高祖父の良平は、山の中で弓をひいていて、孫の三兄弟にもそれぞれ、柔道、剣道、弓道を仕込んでいたということだから、武の道にも親しみがあるということになる。こうした男たちが、人生のはやいうちから隠居に近い生活を送っていたのに対し、原家の女性たちは働き者で、当時で言えば珍しくも、仕事に人生を捧げていた人が多いようだ。しかし、この旅を通じて知ったのは、こうした傾向が、原家に限ったことではないということだった。下伊那全体で、文化的なものに対する愛好心がつよく、地域全体で、地元の文化を守っていこうとする心くばりがみえた。

 下伊那の中心都市、飯田の街は閑散としている。観光客が多いという印象はなく、アーケイドでも所々閉まっているお店があるし、高齢化は進んでいると思う。それでも、一つ一つのお店に入れば、質の高い、新鮮な食材を使った食べ物を頂くことができた。昼であっても夜の地下室のような、明かりを抑えたランプの喫茶店の雰囲気、御寿司屋さんのわさびの瑞々しさ、ビンのリンゴジュースの味わいの濃厚さ。店の雰囲気でも、食べ物でも、一つ一つ飯田ならではのものと出逢うことができる。建築物も、蔵がいくつも残り、寺社仏閣はもちろん、追手町小学校の校舎など、歴史的な建築物がまだ残っている。街並みは、戦後すぐの大火で被害を受けた苦い経験もあるが、高校生らが植えた林檎の樹々が連なる林檎並木も歩いていて楽しく、画家菱田春草の生誕の家が面している春草通りは古い日本家屋が多く残る。文化施設などに入らずとも、歩きながら、街の人が大切にしているものを、肌で感じることができる。散歩がてら目にしたポスターには、「小京都、飯田」の文句が見えた。

 朝の街散歩を終え、美術館の開館までの、ほんのわずかな時間を、飯田市立図書館ですごす。この図書館の蔵書も立派で、自分の地元以上に文学のコーナーが充実している。平日だったが、勉強をする人だけでなく、本を借りに来る中年から老年の人々が多くいて、公共図書館にも活気がある。驚いたことに、美術関連のブースと民俗学のブースがとても大きい。美術に関しては、菱田春草を中心に、地元出身の画家が幾人かいるということに由来しており、民俗学については、柳田國男と飯田の街とのつながりに由来している。

 柳田國男が婿養子に入った柳田家というのが、飯田藩に代々仕えた家柄であったということを、飯田の街にきて、初めて知った。柳田家累代のお墓のある来迎寺は、景観のよい林檎並木沿いにあり、柳田國男もここを訪れた過去がある。柳田家とのつながりにくわえ、伊那谷は古くから続く民俗、伝統の宝庫でもあったことから、柳田國男は幾度もここ信州、飯田に訪れ、地域の民俗研究を行うと同時に、郷土史研究の振興とそれを支える人々との交流をはかった。飯田の人々が地元の民俗研究にたいへん熱心だったことは、柳田國男との往復書簡にも見え、現在でも、民俗研究の研究書が定期的に発刊され、研究会が開かれており、しっかりその志は受け継がれている。街なかを少し歩くと、郷土史研究会のポスターも何枚か見ることができる。

 そうしたことがわかったのは、飯田市南部、飯田城址近くの柳田國男館を通じてである。柳田さんの死後、旧東京の多摩郡・喜多見にあった柳田さんの書斎「喜談家屋」が移築されてこの館となり、飯田と柳田さんとのかかわりを知ることができる手紙などの資料の展示と、大量の民俗学に関する書物が収められている。僕自身、柳田國男のいくつかの作品が好きであり、この飯田の街を通じてつながりを知ることができ、あらためて、民俗学の分野の学びに対する意欲が高まった。途中で立ち寄った喫茶店でも、地元民たちが、外国のものだけでなく、郷土を中心とした日本の学びをもっとすべきだということ、学びの面白さを如何に伝えるかということを議論していて驚いたのだが、今尚つづく郷土への愛や学びそのものへの高い関心にも、柳田さんの尽力がかかわっているように思う。

 飯田を実際に訪れて、はじめて知ったことが他にもある。それは飯田が人形の街であるということだ。人形劇が盛んだった歴史を持ち、一年に一度の人形フェスタが街を賑わせる。飯田の人形劇の歴史は江戸時代まで遡る。当時は、大阪や四国から、人形浄瑠璃の技能を持つ人々が日本各地を遊行していた。人形師たちは、ここ飯田にも立ち寄ったのだが、飯田の人々はその芸能に魅了された。飯田の人々の人形熱は高まり、大阪から飯田に移り住み、人形浄瑠璃の技を伝授する師範もあらわれた。人形浄瑠璃においては、いくつもの流派が飯田に誕生したのだった。その情熱が絶えることなく、現代までつながっているということだが、それを象徴するかのように、街の中心部には川本喜八郎美術館という、人形を展示した美術館がある。これは、「人形劇三国志」などで有名な人形作家川本喜八郎が、飯田の人形劇の伝統に感銘をうけ、自らの作品である人形の多くを、飯田に寄贈したことにはじまる。まだ勉強不足で多くのことは語れないが、神社のお祭りなどでも人形浄瑠璃が上演されることがあるようだ。

 川本喜八郎人形美術館を見学した。人形というのは、贅沢なもので、顔や衣装のデザイン、その素材集めに実際の作成と、多くの人手がかかっており、時には本物の動物の毛皮などの高価な素材が用いられているにもかかわらず、実際に人形が用いられるのは、ほんのわずかで、下手をするとたった一度しか使われないということもある。川本喜八郎人形美術館におさめられた何百という人形は、「三国志」の上演で使われたのち、もう二度と使われることがなくなり、ここに保存され展示されているのである。人形の顔つき、顔の色にはじまり、顔の大きさや目つき、時には人形の目に使う素材まで、一体一体異なっている。そしてその約三キログラムほどの人形を片手で保ち、もう片方の手でセリフにあわせながら顔を運動させたり、目つきを微妙に変えたりする人形師の技があって、はじめて人形劇は成り立つ。人が演じるのですむような劇の方がよっぽど手間暇がかからない。人間はどうして、生の人間を追い出して、人形だけの表現空間を創ったのだろう。その空間でしか表現されえないものとは何なのだろう。生の人間を一度切り離して、そこに新しい表現空間を生み出し、ふたたび人間の声をふきこんでいくという形の表現は、人形浄瑠璃にとどまらず、能、アニメ、最近のVtuberのようなものまで含まれるだろう。現代ではアニメを中心とした日本の芸能が世界を席巻しているが、それも古典的な芸能に由来をもつものであろう。

 人形を操る者を、時に、傀儡師くぐつしという。この言葉は「傀儡政府」などでおなじみだが、陰で操られていて、実際の意思や決定権のない人間や立場を表すときにつかわれることが多い。今回、川本喜八郎人形美術館で、ささやかな傀儡師体験をして思ったのは、傀儡師とは、本来、いのちを吹き込む技を持つ人なのだということだった。少し動かしただけでもわかるが、この芸においては、複数の動作によって顔や表情を変えつつ、体の動きもつけ、しかもその動きたるや、人間のようなしなやかさを求められるのである。そこに人間の肉声と音楽がのってくる。そこにいのちが吹き込まれなければ、後ろの人間を忘れて、人形の動きを真剣に見入ることなんてできない。

 人形劇は世界各国でも盛んな地域があるようで、おなじく人形劇が盛んなフランスの街、シャルルヴィル=メジエール市と飯田市は姉妹都市の関係にあることをそこで知った。このシャルルヴィル=メジエール出身の人物を調べると、詩人ランボオとでてきた。ランボオ論から作家としての道を歩み出した小林秀雄がとても好きなので、このつながりにも縁を感じている。人形をつうじてつながる。人形によってつながるというのは、立ち止まって思いを馳せてみると、何かのアニメの一場面になりそうだ。人形をつうじて、死者との交流が可能になる、そこに異世界が闖入してくるような感覚…。

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