題未定

市村剛大

  表現としてのプログラミング

2023年は「ChatGPT」がリリースされた年だったが、これは後から見れば人類にとってとてつもなく大きな節目となる年だったのではないだろうか。1000年後の世界史の授業ではテストに頻出する年になるのではないかと思う。2010年代から画像、音声といった人間の認知の各要素は徐々に人工知能に模倣されてきたが、ついに言語が模倣できるようになったことで今まで「人間にしかできない」とされてきた領域がグッと狭まった。とともに、「人間にしかできない」とされてきたことの多くが、実は「言語能力」と等価であったかということに人類自身も気づかれた年であった。

開発現場でもここ数年でプログラミングの自動生成AIである「GitHub Copilot」がふんだんに利用されている。単純なコードは自動生成してくれるようになってきており、その精度も年々上がってきている。書くために10人のチームが必要だった規模のプログラムが3人でもかけるようになる、といったような変化が起き始めている。「コンピュータ」は計算手を意味する言葉で数学科を卒業した人の職業の一つであったが、今やそれは機械の名前になっている。それと同様に「プログラマ」もそのうちプログラミング自動生成ソフトウェアの総称になってしまうのではないだろうか。

現状、「プログラミング」は何かを探求する性質のものではなく、あくまでもコンピュータ上で実現したいことを実現するための道具である。「プログラミング」がそのような捉えられ方をする限り、どこまで行ってもそれは何かやりたいことを実行するための中間生成物であるし、それはコンピュータと対話するための方法の一つに過ぎないのだから、ノーコード・ローコード開発のように別の手段が取れるのであれば代替可能と言えるだろう。そのような(エンジニアにとっての)ディストピアが現実のものになったとき、そこに残っている「プログラミング」の価値とはなんだろうか。

一つには90年代から今まで、確かに「プログラミング」が人類の生活を支えていたという「歴史」が消えることのない価値だろう。フィルムカメラやクラシックカーを好んで分解、オーバーホールする人がいるように、古いプログラミングを動かしてみたり、また古いやり方でソフトウェアを作ってみるという営みはその手の人たちには娯楽になるだろう。ただこのような形ではノスタルジーとしての価値、つまり「プログラミングは死んだ」状態での価値である。では、そうでない形でプログラミングが価値をもつ状態はありうるのだろうか。

(続く)

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