去年は体調の方がすぐれなかったが、今年に入ってからはこころの方がすぐれない。六月はさんたんたるもので「考える葦笛」第三回はついに脱稿に至らなかった。便宜上自らは「うつ」と呼ぶことにしているが、病気というよりたんにその状態くらいの意味で会している。このさい「うつ」について書こうかとおもったが、それもならず、この状態になるとそれまで手をつけなかったジャンルに日常生活をなげうって没入することで乗り越えてきたので(アニメ、漫画、VTuberなど主にサブカル──古典文学とヤンキー漫画とダウンタウンとアメリカ音楽とで十代をおくったので門外漢だった)。
今回もそれにならいこれまでまったく手をつけてなかった「異世界転生モノ」アニメをたくさん観たりした。『葬送のフリーレン』(転生ではない)、『第七王子』などと近作をおもしろくみたし、草分けの『Re:ゼロから始める異世界生活』と『ソードアート・オンライン』も合計十二クールと映画三本分いっき観した。いちばん気に入ったのは『葬送のフリーレン』で、なかでも第二話の後半がよかった。又、第一話はどういう訣か、爆笑しながら観た。これはブラックユーモアではないか。以降の話ではそうでもなかったのだが、漫画版第一巻を読んで、さらに笑った。読みながら爆笑してしまうのが漫画の醍醐味だろう、こんなに笑ったのは小学校低学年で夢中になった『金色のガッシュ‼』ぶりだ。アニメ版も近年では『ぼっち・ざ・ろっく!』の次によかった。
しかし、コロナ禍はじめに、岡田麿里さん脚本のアニメ諸作やとあるVTuberの卒業配信をあとからみて心を蘇らせたときのようにはいかなかった。今回の「うつ」は自分でもまだその根源がわからない。いつもなら思い当たるふしというより禍中心はわかっていて、それを踏み越えることで活けるようになるのだが……今回は活くな、ということなのか、ことにわたしなどは活かなければ死んでいるのとおんなじなのに?
こういうときは経験上とにかくたくさん寝るのにかぎるのだが、ただ寝続けることもできないので、寝れないときはもっとも長く遠ざかっていたサッカーの動画にさえ手がのびた(ロナウジーニョの名プレー集)。中三で足を洗うまで、幼稚園から続けてきたサッカーだが、わたしはたぶんぜんぜん好きではなく、友達がいたので辞めることができず続けていたにすぎない。いまでも行きたくない練習に遅れそうになる夢をみる。
だが、小五になったときくらいにやっと好きだとおもえた。そうおもわせてくれたのがロナウジーニョだった。ファンタジスタ、このことばがサッカーを超えてわたしの夢となった。試合の勝敗やコーチへのアピール競争、そういった他者からの評価やかちまけがわたしの存在を無にするようにおもえた。わたしが欲しいのは、楽しさであった。楽しさに満ちた空間はかならずや表現をともなった。スポーツは楽しくない。スポーツの楽しさなどはわたしにはちっとも楽しく思えない。そこは精神がなければ。
中学三年でサッカー部をやめ、一緒に勉強もやめたことが、いまでもわたしの人生のいちばんの事件だとおもう。そこからはじぶんのいちばん肌にあう祭に身を捧げた。ふしぎなことがおきた。そこにもロナウジーニョがいた。名はジミ・ヘンドリックス。わたしはこの二人を別の人物だとおもうことができない。ひとつの精神がそこにある。
小林秀雄がランボォの「地獄の季節」を翻訳するにあたって、その精神を「天才」という語で訳した。天才、ファンタジスタ。わたしがはじめて触れたのはサッカーだ。チームメイトのお兄ちゃんで部のキャプテンだったK君。どこで身につけたのか、かれにはラテンのリズムがあった。ことばの意味をまちがえなければイズムといっていいかもしれない。ピッチの内でも外でも、このイズムが活きていた。触れるだけでワクワクする。ファンタジスタ、かれにはサッカーの神様がついていた(ロナウジーニョはかれが中学に行ってしまってのちあいた穴をついでくれたのだったかもしれない)。K君がみせてくれたあのイズムをもいちど香らせたい小学校のこりの二年間だった気がする。あの二年間だけはサッカーが大好きだった。あれはスポーツでなく、詩の生活だった。
もういちどあの精神にふれられたら、どんな「うつ」もひとっとびだろうに。中学のサッカー部にあがると、時代はメッシ、Cロナウド、イブラヒモビッチ、ネイマール。めちゃくちゃ上手いのだが、わたしは二度とあのこころおどりをすることがなかった。競争がふたたびやってくる。そこで味わった存在が無にされる傷がいまも癒えずにいる。
中学三年の事件のあと、つらい祭の準備のあいだわたしを支えてくれたのは音楽とダウンタウンだった。ダウンタウン。わたしはいまのプロの芸人による「お笑い」で笑えないのだが、その「お笑い」という雑ジャンルとその生みの親のダウンタウンは別だ。わたしが「お笑い」を苦手なのは、スポーツと同じ理由からだ。ダウンタウンがわたしにみせてくれたのは、まったくの反「お笑い」、尼崎のリズム=イズムであった。
令和四年「伝説の一日」NGKでの漫才はかつてわたしをつかまえたダウンタウンそのままであった。四一歳になったロナウジーニョのサッカーがそうであったように。
その時々にありし花のままにて、種なければ、手折れる枝の花のごとし。種あらば、年々時々のころに、などか逢はざらん。ただ返す返す、初心忘るべからず。
花を咲かせても、種がなければ、手折った枝の花のように、二度と咲かない。種があれば、年々に役立つ。何度でも言うが、初心を忘れるべからず。(『風姿花伝』)
冥土の土産だ…
庶民
一撃見舞って
みせろ…
貴様の魔術を
魔術師として
大切なものは
家柄…才能…
努力である…
魔術師の祖
ウィリアム・ボルドー
の言葉だ…
勘違いするな
ココでいう『努力』
とは大前提だ…
即ちいくら
努力をしようとも
『血』にも『才』にも
恵まれぬ…貴様の
ような凡才に
魔術が
微笑む事は
生涯ない
(あぁ…//なんて…/なんて…/素晴らしい!//コレが…/全てに恵まれた…/貴族の魔術…!/熱い…痛い…/綺麗だ!/素晴らしい!//願わくば…/もっと…/もっと……//学びたかった/…極め…/たかった…//魔術を…) ?
漫画版の『転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます』の冒頭で凡夫の主人公が十八世紀あたり?のヨーロッパのどこかの市中で、どういう経緯があったか定かでないが魔法使いの貴族に魔術で灼かれるシーンの台詞なのだが、主人公の最後の一撃はほんのちいさな火の玉でしかなく砂のように払われ、お返しに大火の渦を見舞われ、そのさなかでかっこの心中独白がつづく。次に気がついたときには、おなじヨーロッパの中世の城に、魔法の申し子のような第七王子として〝異世界転生〟するというここはよくある流れだ。めずらしいのは、主人公の異様な魔術へのあこがれで、この心が強すぎるあまり転生を果たすというところで、初心がきまっている。生まれたときから異世界でやることがはっきりしている。
ところでここ十年弱くらいでなろう小説やライトノベルやそれを原作とした漫画アニメでブームになった「異世界転生モノ」とはいかなる
発想形か。わたしは一時期集中てきに自らの夢日記を収集し、夢について自分なりに考え込んだことがあるが、人間は現実世界とおもえるとこで起きているあいだ活動し、睡眠中は肉体はこの世界に留めながら、心のほうでは夢の中で遊んだり迷ったりしている。夢をみなかったとしても、わたしとしてはそれは目覚めてすぐ忘れ、思い出すとっかかりのつかめないからで、というより起きてるときも心は、勝手気ままになんでも観念が観念のうちで成就するいわゆる妄執を持ちつづけているようにおもえる。分別だとか理性だとかいうのをはずして心単体をかりに想ってみれば、これは非常に駄々っ子で邪しまでへそまがりで融通がきかない。もしそれが都合良く現実行為できる夢のような世界──事実夢のなかでは心は自らの望む世界そのものを創造してはばからない(それが目覚めているときのわたしたちの意志に反するとしても)。悪夢も目覚めはわるいが、よくよくかんがえてみると心はわたしたちに悪夢をみせることを楽しんでいるようにみえる、辛抱強くむきあえばだんだんと心の願望がわかってくる。
「異世界転生モノ」とはそのまま、わたしたちの目覚めている意識のくにから、眠りの中の夢の世界へ行く日常体験の比喩を定型としてとりこんだ
発想形とかんがえてよいだろう。これが良い夢に転べば、異世界でまったりスローライフ的な作品となるだろうし、悪夢に転ずれば『Re:ゼロから始める異世界生活』のようなレストレスアンドストレスフルライフが展開されることになる。そもそもが漫画アニメ小説のものがたりに読者をして没入すること自体が一種の異世界転生体験なのだが、このジャンルはそれにひとつ囲いを増やして表現している、それはどこかでフィクションやファンタジーの世界に、現実を忘れるようにして没入したいわたしたちの願望とそればかりではじっさい生きてゆけぬという葛藤を乗り越えたいモチーフによるのだろう。そういう意味では、よく揶われる現実逃避というのはあたっていない。この枠組はつねにわたしたちに結局これは異世界ですよ、と告げている。作品内での心のゆとりやくつろぎや熱狂を確保するために、玄関で靴をぬいでいる。いうまでもなくこの所作には様式がうかがえる。いつか行儀は悪くなってくる。が、またあたらしい洗練のときもくるだろう。そっちは『葬送のフリーレン』にかんじたが、もうひとつ精神とでもよぶべき何かは『第七王子』から感じた。この作品における異世界転生は現実と夢の往還の比喩でなく、わたしたちのうちの、心といっても足りない、子供の姿に似ている。わたしたち自身の子供のときでなく、あそこを駆け抜けていった風の形姿だ。
人は弱い…不自由と共に
生きてきた だから何処までも
積み上げてきた…魔術もそう…
空が飛びたい
火を出したい
……一つ一つ
込められた術式には
人の夢が根幹にある
故に
無限だ
魔術は無限に
面白い……
魔術の申し子たる〝第七王子〟に転生した主人公ロイドの心中独白、かれは作中でこの魔術の無限の面白さを体現している。自身が魔術にもっとも魅了されている、そのかれが魔術を駆使する様は、作中人物たちや読者のわたしたちを魅了してやまない。ちょっと目を覚ましてみれば、それは漫画という絵に描かれた餅にすぎぬ。この作品の良さは、このロイドの精神が、そのままこれを描いている漫画家のペン先に生きているからだ。これはメディアミックス作品で、Web小説にはじまり、キャラクター原案と漫画の作画が加わり、アニメ化にまでいたっている。私見では『第七王子』が精神を爆発させたのは漫画の段階だ。話の大筋は原作小説どおりだが、ギャグ・リズム(間)・なにより絵の楽しさ、台詞のブラッシュアップ、そして大部の色付けによりロイドの心の張りがページ全体を覆った。作者は漫画を描くのが無限に面白い、それが手にとるようにわかって、こっちまで楽しくなる。アニメ化の段階では、このバイブスが多くの人の手にうつっていったにちがいない。わたしたちが手にとるのは、ロイドとも作者ともわからぬひとりの子供がさっそうと通り去った風のあとだ。
あたりまえのことしかいっていないが、いわゆる令和現代のコンテンツ大量消費の時代には、売れれば売れるほど、作る側も見る側も、このロイドが魔術に感じている面白さを忘れ、気づいたときには味のしない食事をしている。漫画作画の石沢庸介さんはどういう奇術でか、この流行り病からまぬかれている。かわりにロイドのように優雅な退屈を得るにまでいたっている。気づいたら異世界に生まれていたのはいったいどっちのほうだろう。
……一つ一つ
込められた術式には
人の夢が根幹にある
わたしはこの「術式」というのが詩だとおもった、文学だとおもった、藝術とおもった。ロイドの物語はそのまま詩をかくわたし自身の魂のゲンジツにみえ、すぐにのめりこんだ。作ることもだが、読んだり見たり聞いたりするのにも同じ心の張りがいる。ロイドはいう、
現世も前世も
…魔術書に
想いを
馳せてきた
こんな魔術を
発明した人は
一体どんな人
だったのだろう?
かれは過去の術式化(文章化)された魔術に、技術を読んでいるのではない。本を手にとってするのは紙の手触りだけではない。ここをわたしは詩文学藝術の最終防衛ラインと考える。スポーツも街づくりも宇宙開発も同じだ。エンタメも純文学も遊びも本格もない。オリンピックを余力のこしのぶっちぎりで優勝したウサインボルトはいう、「
おれの町にはおれより足の速い名もない凡夫が五万といるぜ、みんな裸足でおれをちぎっていくよ」。