猫の目

益田伊織

 留学経験のない日本人にしばしば見られることだとは思うが、私のいわゆる「語学力」はリーディングに大きく偏っている。英語やフランス語の、難解とも言われる文学作品や学術書をそれなりに読みこなせるという自負はあるが、会話となるとごく初歩的なやり取りすらおぼつかない。

 やっかみ混じりの自己正当化のようだが、英語を話せれば十五億人、世界の五人に一人と意思疎通できる! などと聞いても、そんなにたくさんの人間としゃべって何か意味があるのかと言いたくなる。生を豊かにするのは十五億人と話すことではなく、十五億人に一人の言葉を持った存在と出会うことであり、それを可能にしてくれる手段は私にとって、何よりもまず文学だった。日常会話で使える言い回しを覚えるよりも、シェイクスピアの一節、マラルメの一節を心に刻むことこそが真の語学、言葉をその歴史の豊かさと美しさとそこに込められた知恵の広がりとともに学び取る喜ばしき知なのだと信じてきた。

 ところで優れた文学的才能の持ち主、言葉を文字の連なりに落とし込むことに卓越した才能を発揮する人々が、同時に演劇的才能、言葉を特異な肌理を湛えた声と独特の魅力あるリズムにのせて放つ技術にも恵まれていることはしばしばある。例えばジェイムズ・ジョイス自身による『フィネガンズ・ウェイク』の一節の朗読。例えばアントナン・アルトーによる自作のラジオドラマ『神の裁きと決別するため』の録音(どちらもユーチューブで簡単にアクセスできる。それぞれhttps://www.youtube.com/watch?v=M8kFqiv8Vwwhttps://www.youtube.com/watch?v=EXy7lsGNZ5A等。後者については、アルトー以外にも三人が参加している)。英語が分からなくても、フランス語が分からなくても、これがすごい、何かヤバいものだということは分かるはずだ。私にとって語学の本質は、この「何かヤバい」という感覚のうちにある。文法書を通じて単に妥当なだけの言葉、正しいだけの表現を身に付けることよりも、ABCさえ分からなくていい、この異形の言葉に身を晒すことの方が、はるかに刺激的な学びに違いないと思う。

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