ここ二ヶ月、どうしても散文がかく気になれない。ペンをもって白紙を前にするとそのつもりもないのに詩を書いている。どうせ書くなら詩にしてしまえ、という気分。
そのせいもあってこの7月号のリリースを一ヶ月も遅らせているという編集者失格の暴挙にでている。
じつは原稿は連載五回分ほどは書いている。それをおもてにしたくない、というか納得がいかない。中途半端な質なものは少数の読者への非礼にあたる気がする。そうはいいつつも、さすがに何も書かず雑誌も出さなければ元も子もないのでけっきょくこのようにすてばちのペンを執るのだから人間が出来てなさすぎる。返す言葉もない。
いまちょっと詩が書くのが楽しい時期に這入っている、幼稚園ぶりにじはつてきに絵筆をとったりもした。少し前から哲学と詩についての「考える葦笛」という連載に加え「POETIX」という変な連載ものを書いてみたいという気になっている。その準備がはかどりすぎてどこから書きはじめたらいいか分からない。即興の方が面白くなるのは経験則でわかっているので、用意したのを忘れるのに時間がかかっているところ。
やたらと長かったような経緯ははぶくが、わたしは詩を書いてはいるが、「現代詩」というわがクニの〈文芸界〉への入場を拒否した(むこうからははなから相手にされていない)。作品発表の場は、この「偏向」や手前のSNS、近々発表予定の新媒体など。
音楽がむかしとちがってレーベルなどを介さずにだれでもネットで発表できるようになり、それを強みとしているアーティストも増えてきているのにもかかわらず文芸世界だけが、おそらくは体育会系組織以上に、旧態依然としている。出版社不要、と創作者の側からいってやらねばならないのだ。太古より悠久性と機敏性を兼ね備える詩だ、小説病のわがクニでは売れないだけでなくその地位が低いことに悩んできたが、むしろ売っても売れないことが強みになる。はなから売れなくていいならネット発信と相性がいい。小説車が立ち往生しているあいだに、するするとカブで抜けていける。
どう考えても、動脈硬化の文芸業界は詩にとって無用の長物。とっくにお役御免の時だ。なぜそれができない。詩で食おうとするからいけない。最近たまさか読んだ昔のお釈迦さまのかきつたえに「田を耕すバーラドヴァージャ」という面白噺があった。そこでわたしが聞いたところによると、あるときお釈迦さまはマガダ国の南の山にある「一つの茅」という村にいた。そこの村の田んぼで、ちょっと羽振のいいお百姓さんがいて、村のみんなに食べ物をご馳走している。お釈迦さまも並んで御相伴にあずかりたいわけだ。するとお百姓さんがいった。〝道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え〟。あいたたた、これはわたしにもきく。ようはハタラカザルモノ食うべからずというやつだ。お釈迦さまはこう応える〝バラモンよ。わたくしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う〟と。昔のお百姓さんというのは、心が柔らかかったので、すでにちょっと感じるところがあるのか、漫才風にこういうふうにききかえす。
「いやあ、おれにはゴータマさんの軛も鋤も鋤先も突棒も牛もみあたらねえけどなあ。だのに〝バラモンよ。わたくしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う〟などとおっしゃいます」。
さらに昔のお百姓さんというのはフリースタイルにたけていたので、ラップバトル風にお釈迦さまにアンサーを返すように押韻をけしかける。それならばあなたのいいたいこともわかるかもしれないよというかのように。お釈迦さまというのはなんでもお出来になるお方なので、そこでやっぱりみごとにかえす。内容はようするに、よくある精神論で、わたくしはこころの耕作者なんですよ、ってなことなのだが、それがあんまり見事にビートにのっかってくるので、こちらにもそのバイブスがぐらわぁっと伝わってくる。お百姓さん、すかさずハンザップ。両の掌にはミルク粥のたっぷり盛った大きな青銅の鉢まである。〝ゴータマさまは乳粥をめしあがれ。あなたは耕作者です。ゴータマさまは甘露の果実をもたらす耕作をなさるのですから〟。
ここでもしかイエス・キリストだったら、おお、わかるか。もうお前は救われた、というところかもしれない。けど、お釈迦さまはわたしにも予想外の応えをする。
詩を唱えて得たものを、わたしは食うてはならない。
これにはわたしもお百姓さんもちょっとびっくり。じゃあいったいこの粥はどなたにあげましょうかとなる。そしたらお釈迦さま、この食べ物を消化できるのは如来とその弟子しかいない、という。神々も人間も腹を下す、と。だから青草の少ないところか、生き物のいない水の中に沈めよ、とまで。食べ物を粗末にしていいものだろうか。
お百姓さんもさすがになにがなんだかわからなくなり、えいやっと粥を水に沈める。するとなんとふかしぎな、熱した鉄の棒を水にいれたみたいに、ブシュうっと湯煙をたてながら沈んでいくではないか。お百姓さん、もうそれはそれはおそれおののいてしまい、あぁ、なんと、モノホンプレイヤーさま、おれぁあなたさまに一生ついてく。
──その百姓さん、のちに聖者の一人となったという、それもごっさファンキーな奴に。
とまあこういうエピソードだ。(〝〟の引用などは『ブッダのことば』岩波文庫、中村元訳)
(そういえば恐れ多くもイエスも〝カイゼルのものはカイゼルに返せ〟といっている)。
謎は二つある。まず、なぜ詩を唱えて得たものをお釈迦さまは食うてはならないか。もう一つはいわずもがな。ここにわたしは仏教の教えなどより、詩の不思議をかんじる。
ざっくばらんにわたしの考えたことをかけば、まず詩は天とかわたしたちのわけのわからない異界とか冥界からのいただきものであって、その褒美をわがものとするのは盗むのよりも悪い。とまあそんなところだ。だかこれはそんなに面白い考えでない。
問題はこうだ。お釈迦さまが詩を口にしたら、それがお百姓さんのさしだす食べ物にかわった。このことがおそろしい。この食べ物は畑で採れたものじゃない。それを口にしたらどんなことになるか。そしてじっさい、水をも灼くやばい食べものだったわけで。ここでもしお釈迦さまがかくし芸を披露、それに笑ったお百姓さんが食べ物を恵んだとするならけっこうだったかもしれない。詩というのがいけなかった。なぜなら、それは畑で採れた食べ物を、言葉の力でもって、裏宇宙物質へと還元してしまうから。
詩はこのようにわたしたちの手にあまるなにものかだ。こんなにすごいのに、なぜ、文芸作物として売りに出さねばならないのか? まあたしかに、これで得られるのがお釈迦さまでさえ口にすることのできない魔の食物なのだから、とうてい食うに困る。わたしたちはだれもが食わねば生きてはいけないのだから、そしたら詩人というのは、まあなんでもいいから食べ物を得るということをせずにはおかれない。だがもし詩を商売道具としてしまったら……わたしにはあんまりおそろしいことだ。
ランボォがたしか十五歳くらいのときの手紙で、〝かのプロメテウスみたいに、詩人はまさに火を盗むのです!〟と書いている。彼には智慧があったので、それを売りにはださず、ただでわたしたちにくれた。わたしたちは翻訳料や紙代や運送費や人件費は払っても、詩にカネを出して買うわけじゃない。このことさえ忘れなければ、まあわたしにしてもいつか詩を出版物として世に出すことをじぶんに許してやっていいのかもしれないが、うーん、いまはまだ無我夢中で詩を書いているのでせぇいっぱいだ。それにわたしはまだ詩のことを知らなさすぎ、こわい。しらず知らずに口に運ぶのが。
「POETIX」では、詩とこの世界と人との関係について書いていけたらと考えている。