フィールドワークとして生きる

村上陸人

 大きく息をはいて、大きく吸い込む。息を止めて力をこめる。背中を丸め、へそを覗き込む。妻が身体を起こすのにあわせて枕を首元から背中へとあてがい支える。数秒間、全身の力が込められているのを枕越しに腕全体で感じる。一呼吸、力を抜く。大きく息をはき、吸い込んで息を止める。もう一度枕をあてがい腕で身体を支える。医師がもうあと何回かだと励ます。それから二回、三回といきみを続けた。力を抜いて休むたびに妻の体力が消耗されていることを感じる。体力とは反対に、産むことへの意志はどんどん強くなっていくように感じられた。赤ちゃんの頭が出て、身体が出たとき、妻の体力は臨界点に達していたように思う。妻には尊敬と感謝の気持ちでいっぱいだ。

 母体から胎児が出てきた瞬間、場の空気ががらりと入れ替わった。妻がいきみを続けている間、その場には助産師、医師、夫である私がいた。母体が頑張れるよう全員が意識を集中させていた緊張感が、胎児が新生児になった途端に、無事産まれた安堵と、母子それぞれの命を護らねばという別様の緊張感に変化する。生物学的に繋がっていたもの同士が分かれ、それぞれの道を歩み出す、三叉路を見る。

 個人という観念が特殊なものであることは、自覚しているつもりだった。主体的に生きる、他人と分かたれた個人なんて、ごく限られた文脈でしか成り立たないことは、よく理解しているつもりだった。実際に、集団で音楽に揺られたり、飲み会で周りに心地よく応答したりと、自他の境界が融解する感覚を日々体感できていると思っていた。我が子の出産に立ち会ったことで、改めて個人というものについて考えさせられた。

 妻のいきみに合わせて枕を持ち上げ妻の身体を私の腕で支えているとき、私は妻と呼吸をともにしている。単に息をはいたり吸ったりするタイミングが合わさるのではなく、その一歩奥の感覚を共有している気がした。それは状況に対する不安や期待といった感情とも言えるかもしれないし、心拍や匂いなどの要素に分解できるのかもしれない。しかし、重要なのは妻の身体に私の身体が自ずと連動していたことだろう。このとき、妻と私の分かれ目は、個人という観念が捉えるよりも曖昧になっていた。同様のことが、その場にいた助産師や医師にも言える。分娩室のなかで、個人の分かれ目は揺らぎ、部屋全体がある種一体となってダイナミックに動いていた。この感覚は、音楽での感覚と地続きと言えなくもない。極限状態で、自他の境界が融解する強度が極度に高まっている。

 胎児および新生児が紡ぐ関係はさらに不思議である。胎児が母体を出て医師の手で取り上げられる姿は、身体と身体が分離していく姿であり、一なるものが二に向かう姿だった。自ら呼吸をはじめた新生児は、周囲と分かたれた個のように見える。一方で、胎児も新生児も生をその周りに依存しており、身体の分かれ目をはみ出している。妻の身体から赤ちゃんが産まれたとき、新しい生命のはじまり、新しい個人の登場を感じ、得も言われぬ感動を覚えた。しかし、その生命、その個人は、その周りと分かれていない。つい数秒前までは母体のなかにいて、一つの身体だったし、これからも他の身体と繋がり続ける。当たり前のように身体の分かれ目を乗り越える自分の子に、自分がいかに個人の観念に囚われているか気づかされる。

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