フィールドワークとして生きる

村上陸人

 連休のあいだ、近くのギャラリーでお手伝いをさせてもらっている。リニューアルオープンにあわせた三人の作家のグループ展で、参加型作品の案内をする。リニューアル時に壁を塗り替えたのだが、一面のみ八つの色が塗り重ねられている。その一面は玄関入ってすぐのサンルームにあり、来場者は彫刻刀でその壁に線を彫る。線は二本あり、増やしてはならない。必ず今ある線の端からスタートし、線を閉じずに終えなくてはならない。彫る線の長さは十五センチ、三十センチ、九十センチから一度だけ選べて、途中で変えることができない。私は以上の趣旨を来場者に伝え、彫刻刀で彫ってもらうのを見守る。

 グループ展の三人のうち一人は陶作家である。作品は一見すると何に使うものなのか分からない。少しいびつな白い球体で、ひびが入っている。ひびから内側の灰色や茶色の素材が見える。この作品は触れる。ずっしりとした重みがある。塗料の塗られた白い部分はとてもなめらかで、ひびの内側はざらざらとしている。陶芸で球体を作るときは、通常、中を空洞にする。火の通り方によって膨張の仕方が違うので、空洞を作らないとひびが入ってしまうからだそうだ。この作品はあえて空洞を作らず、ひびを入れているのだという。内側の素材も均一ではなく、土と陶片が混在しているのだそうだ。だから火を入れるといびつな球体になり、ひびの間から中身が顔を出す。

 色が塗り重ねられた壁が、来場者によってどのように彫られ、最終的にどのような図になるのか、誰にも予期できない。陶作家の球がどのような形になり、そこにどのようなひびが入るか、火を入れてみるまで分からない。作品が作家の意図の外にある力を孕んでおり、とても力強いと感じた。芸術家ではない私も、生活のなかで色々なものをつくっている。冷蔵庫にあるもので適当に済ませた料理、間に合わせの会議資料、締切後に書いているこの文章など。それらの主体は便宜上私ということになっているが、私の意図の外にある力も孕んでいる。必ず予期しないことが起き、完璧は決して達成されない。

 どんなに頑張って結果を操作しようとしても、結果は絶対に思い通りにならない。不完全でしかあり得ないことに幻滅することもできるが、開き直ることもできる。意図せぬ展開こそが、経験を一回きりのものにする。壁の線も、球のひびも、料理の味も、資料の見栄えも、この文章も、二度と同じことは起きない。大量生産されている陶製の便器も、全く同じかたちに見えて実のところ一つ一つ微妙にばらつきがあるそうだ。ただその固有の偶然を生きることができるのは、その場に居合わせた私をおいて他にいない。私はどちらかといえば、不完全さを愛したいほうだ。

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