またこの習慣が「かうよろづのつゝましさを忘れぬべかめるをし〔かようにさまざまの遠慮を忘れてしまいそうであるようなのをそれこそ、〕」というような助動辞(詞)の発展・プレディケートなき動詞ニュアンスの子細化をうながすこと(「東屋」『日本文法体系』藤井貞和より)にもなったという(現代のわたしたちにとってそれより前の万葉集よりはるか源氏物語の原文のほうがむずかしく感じられるのはこのためだ)〝習慣を作ってきた﹅﹅﹅﹅﹅〟というからには源氏物語の突然変異でなく古今こきんから公然と進んだ詠歌の副詞撰択の意匠化が人事を設いた。視方によれば世界文学級ワールドリターチャークラスともいえる高度な長篇ロマンを績んだいみじき文化資本おほみたからではあるが、これは「或点から言へば、大きな弱点にもなる」「たとひ文学的には優秀性を明らかに持つてをつても、言語には尚、科学性の深い論理が重要なのである。おそらく、日本語の今後の行くべき所は、助動詞の発生原因が示してゐる様に[単体では意味をなさない機能語なので『日本文法体系』参照]、気分を豊富にし、感動を豊かにこめ、判断をきつぱり言はないと言ふ様な点から、脱却する必要が多いのだらう。それは助動詞[辞]の表現に対しての、反省と言ふことが必要だと思ふ」無実のまま古黴の生えたようなサルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉をここでとりあげてもいい。惰性からそうなっているにすぎない因襲を「伝統」と名づけこれになづん﹅﹅﹅でみたり誇ってみたりしてみてもそれは内部の腐朽しかよばない。来客を拒否するうち﹅﹅は腐臭にうづもれてゆく。もいちど屍を活きづかせ外に咲かせるコトバが♳にいう折口の〝物〟〝外在魂〟でした。プレディケートを省略する不安﹅﹅から源氏物語の「もののあはれ」(本居宣長)を開け放った花咲爺じいがいます。世界文学として通用するニホン語の宝・源氏物語と肩を竝べる、いや凌駕しているのは「いひおほせて何かある(いいきったところで何がのこる)」(芭蕉)精神もつ﹅﹅﹅﹅HAIKUだろう。いわばこれははーと閉ざす(省略をいま反省して)本質を心臓ハート開く沈黙の実存にふゆ籠りまたしふるコトはる(ものいみのはれ)まつり﹅﹅﹅だ。伝統を守つとは、このコトを何度でも何度でも全たしつづけるコトでしかありえない。でなければそれは空虚になづむ﹅﹅﹅。「みそぎ」とはしんじつこのコトであった〝拘泥して早く行かぬ〟タレガ?たまが「中昔のころには、盆という時期は、死人の魂が戻って来るとともに、無縁の亡霊もやって来ると考えた。少しでも、亡霊を嫌がるそぶりを見せると、また戻って来ると考えた。戻られると厄介だから、(…)名残り惜しい名残り惜しいという意味を口に唱えるが、実は噓で、そう言いつつ追い払うのである」執筆中。ここからJBと清志郎のマントパフォーマンスで、なかなか帰ってくれない。あのしつこさ、夏、みそぎ、をつなげていく。