草枕羈宿に、誰嬬か、国忘れたる(有)。家待まくに
草枕羈宿尓誰嬬可國忘有家待真國
「『待たむ』から『待たまくにあり』という語法ができ、プレディケートを省略する。それが『待たまくに』だ。待つだろうことである、という意味」省略(一旦そう言っておく)ので「待つだろうこと(なの)に(忘れてある)」という反語による詠嘆でなく(『折口信夫全集ノート篇』第十巻)「待つだろうことで(ある→省略)」と直訳するとわかりやすい。だろうことがまくなのは、
むmu+a(後述)でニホン語では母音連続がつづむのでuが溶けmu+aku→makuいまのニホンの義務教育の「こくご」カリキュラムでは小学校二年で「主語」「じゅつ語」を習う。これは明治以降、英文法を鋳型として現東京大学の国語学閥を中心に鋳造された「学校文法」に則っている。英文法の基本はSVだ。体言(「名」詞、句、節、「代名」仝)
に動詞(用言は活用に注耳するのでいまは関係ない。動詞+形容詞にしてもまず第一に動詞がなければ話にならないという重点でここは動詞とする)がくっつくのが文の基本だ。この基本にかかるメインの体言subjectを「主語」、動詞verbを「じゅつ語」と翻訳している。さきのプレディケートはこの「じゅつ語」にあたる。折口があえてこう言うのは、これはこうだ(である)と言い切るニュアンスを込めたかったのだとおもう(それと折口をしてカタカナ語でいわせるほどは国語から疎遠になっているとの)、そしてニホン語にはそれを省略する傾向があると。ただ言わずに了う、いい方をかえれば、言わずに了えるのであって、省略というと基本形からさしひく意味で、そうでなくて、ニホン語において基本形はあらわでないから省略といわないほうがよく、表現のエコノミーでそうするのでもなく、わたしたちがPOETIXでいうところの〈心〉の○でかむかふべき、宿命にも似た無意識の傾きがある。相手が相手だけに省略にかわる言い方をこちらもまだ提案する用意がない。それがいいかわるいかも、いいところもあればわるいところもなきにしもあらず、というほかない。ただその事例のあるコト……お!や?するとニホン語におけるいわゆる「主語」は文脈上必要なときしか姿をあわらさないし「じゅつ語」は言われずに了うコトがあり、英文法において(仏文法でも独文法でも……これを基本とする言語は世界中に八つしかない。スウェーデン語デンマーク語ノルウェー語オランダ語ドイツ語英語、ラテン語派生のロマンス諸語中ではフランス語と消滅寸前というスイスのロマンシュ語のみ(金谷武洋))その代役のきかない看板を(それぞれの意味合いは別でも)無くて了える(表現の完全を期せる)同じ見せ物でも能とオペラくらい違う「言語ゲーム」を同じ面でやれというのと同じことをガキあいてに寿限無寿限無やってることになる。当然、教える側ふくめ、だれもが文法はサギとは気づいてる。気づきながら足を洗えずにいる。いやサギを「サギ(である)」とプレディケートできずてめェで溺れてる。のみならず学校の教える「英文法」さえも無用の長助とだれもが思ってることならちょっと前の「PPAP」の大ヒットが教えてくれた。ペンパイナッポーアッポーペン!は体言が体言だけで連弾して文なせる五劫からの〈文法〉と音韻のここちいい畳かけ(韻律すなわちフロウ)が「文法」の試験を通らずに(〈文法〉の関は通過して)構成に乗って歌意のようなsomethin' elseを全したニホン語の英語に思い出させた美といってよく、遣る瀬のない「英語」の教科書(情報商材)の例文をくすぐっただけのネタではなかった。「学校文法」の裸っぷりを嗤うのはいい。なら文法(一般)まで蹴飛ばしていいのだろうか。