そいつがどう起ったか知ってる─コトの始まりを見た/ハートを開け放ったら、世界が這入って来た「偽預言者」ボブ・ディラン
秋とはなにか。前章♳を踏まえて、さきの一行目を飜せば「この世界はふるコト全てだ」夏のふゆまつりといいました。冬籠りしてものいみが完全になると〝物〟がふる。するとはる状態(全裸)で外に出て行く(はる)。夏の季(至まり)もこれと同じ事態が起ちます。
みそぎする河せにくれぬ、夏の日の入相のかねのその聲により天の川みなわさかまきゆく水の─はやくも、秋の立ちにけるかな実朝(金槐集)
気の遠くなるほど古いコトを追っているのですから最低でも万葉集の事例を訪ねるべきとこですが鎌倉三代目将軍のこの源実朝という歌人(もうほとんど詩人と呼びたい)には永遠のティーネージャーたるエディ・コクランも〝She's somethin' else(彼女はコトだぜ)〟とついうならずにはおけないほどのニホン語という河(〈文法〉)への沈潜力でもって水底より玉をひろいあげてきはる。この夏の季と秋の立ちとの二首はあとで〈肉体〉の……○(ダイヤル)でもとりあげますが、少し先回りしていえば、一首目、夏・西・暗喩軸(え・水)・聲と〈祭〉〈ここ/そこ〉〈肉体〉〈むすび〉の四つの○をひとからげに表現しています。母韻に
注耳すると、かはせにくれぬ……かねのそのこゑにより、と(どれもか行音につづけた)えの韻律によって入相のかねの聲を響かせています。しかもこの入相の鐘はたんなる日没につかれる寺の鐘のことでなく西の海(〝河せ〟は海岸でもいいでしょう)の涯に沈みゆく日輪のイマージュが鳴り響かせる永遠の聲音です。四天王寺には現在でも春分秋分の日に「日照観」という和泉灘に沈みゆく夕陽を拝む信仰がのこっており、その縁起は空海による
とされていますが、仏教伝来(聖徳太子)はるか以前の民間信仰に実情は遡るとみてええ。