【序説における〈祭〉完結篇につき♳(前提)の三倍ちかい厚みとなっております】
秋とはなにか「Die Welt ist alles, was der Fall ist」かの有名な(そして無実ともいえる)ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』ドイツ語原書の第1文です。同じ一九二二年の独英対訳版の英訳では「The world is everything that is the case」これならわが国の義務教育レベルでも直訳はできるだろうと思います、この世界はケースであるところの全てだ、と。der Fall/the caseは考えうる「事態」が現実になったコトだという。わたしたちの日常語で「事態」といえば、つい最近ではCOVID-19の「緊急事態宣言」でしょうか。イギリス語の
著名作で『The Case-Book of Sherlock Holmes』の「事件」というのはいかが。どうやらcase(事例、事態、事件、訴訟、症例、実情etc.)には対岸の火事でなくわが身が(想い浮かべているにすぎない時でも)その禍中にあるコトといったニュアンスがあるらしい。わたしの十代のバイブルだった湘南や横浜の暴走族をモデルにした漫画のせりふでよく「そいつァコトだぜ」などとあって、あたかも読者のこっちまで起こりつつある事態のキナくささに包まれてあっちとこっちのさかいがなくなる。英訳でもこの肌感は保たれているが、論理学はその習性としてこのコトをがらす・ケースに容れ死物化してしまう。ヴィトゲンシュタインがこのときやりたかったのは、論理の学でなく、論理を哲学するコトだ。この風狂いの哲学者が論理('A is B' is T/F)という水晶宮に籠り、内から死に物狂いで撃ちまくって覗けた虚空より降りきたったのが、わたしの見立てでは〈文法〉という不思議だった。発見者はこのコトを心臓に抱えて水晶宮の外に出て来ました。