価値観﹅﹅﹅というのも非常に便利なことばだ。言葉尻にとらわれず、いわんとすることはわかる。値段とは完全に相対的だが、価値となると美的判断が入ってくる。が、価値はどこまでいってもみんなにとって﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅というニュアンスがまとわりついてくる「聴く(観る)価値ないよ」とか「絶対的な価値がある」とか。価値がそもそも絶対なら文法からそうはいわないだろう。いっても価値(値打ち)とはよしあし﹅﹅﹅﹅だろう。それよりか同じ経済用語をつかっていても「からだが資本」という慣用句のほうが価値はないが含蓄はあるようにきこえる。前世紀に新型コロナ・ウィルスよりも広まった「資本」などいう有名無実の語が、ここでは正しい用法をしめしている。だから「からだが資本」の〝資本〟が「資本」という語の資本だ。パンクロッカーや漫画家は「お金で買えない資本」「他人がつけた値段より、てめえ(たち)の資本」といえばよかったのだ。商品はお金で買えるが、資本は買えない。また他人がどういおうと資本はすでにそこに働いている。なんといおうといまここにわたしのからだが生きているように。そしてからだはたえず栄養を要求しながら敢然として自らの死を育てつつある。心はからだの死にたいする超越の態度にどこかComplexをもつ。また私(自我)という意識はまったく応対がとれず、なるべくそっちのほうを見ないようにしてる。ニホンの和歌が心に価値をもっているのにたいし、詩がわが國でここまで不興を買って来たのは、詩はまさにこのからだが資本だからだ。「もののあはれ」という平凡な語におのが思想の全重量をぎつぎつにつめこもうとした本居宣長もとおりのりながは、ほんとうなら「『もののあはれ』を知るには和歌の発想からではだめだ」とまでいうべきだった。だが王朝和歌や俳諧にたいする価値観はけっして理屈でうごかせるものでなく、漢詩などもってのほか、王朝文化復古の系譜のさいごだったはずの芭蕉とも、古典ロック・ファンとボカロ・ファンとのごとく互いに素。短歌に俳句に口語自由詩が加わって、ニホンの詩歌句約百三十年、みごとにからみあわない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅三つ巴の対義語のような状況が続いてる。まるで令和のわたしたちのアタマと心とからだのばらばらのごとく?だったら元手は一つ。三つ巴。六つ○。