8すると上の「歌意」(たとえばふゆ二文字でも広義の歌とかんがえる。歌の意味すること)と下の「音韻」のあいだには〈文法〉がある。「音韻」から「韻律」、「構成」から「歌意」は〈文法〉の関を通過しない。また、「韻律」と「歌意」、「構成」と「音韻」のあいだには→がない。ここで〈祭〉の○の……の\を書き込んでみる。谷折すると「韻律」と「構成」と、「韻律」と「歌意」と重なる。「文春」と醜聞みたく。〈文法〉(春)とはここでは(秋)ふゆの遣われ方(夏)・だ。ふるからふゆ(冬)へ音がうつることでその遣われ方が変わり、文脈のなかで「構成」される意味が変化してくる。また、ふるからふゆに音がうつっても折口信夫はふたつの語の遣われ方(〈文法〉)を古典文献をあらったうえで説をうっている。素人としてはふゆは殖えると短絡したくなるがそうするとふゆの手前にふるのあることに気づけない。〈文法〉は遣われ方であるが、根本は遣い手とそのりゔぃんのもつ感性の思想にある。「歌意」「音韻」「韻律」「構成」これらのどこに違和感があっても反省に出会うし、なによりも〈文法〉からまず想わねば、シーンに対すRESPECTなき絡繰屋、罠売りにおつ。ヴィトゲンシュタインなら、その「言語ゲーム」に加わるというだろうか。これは祭に参加するのと同じく命懸けだ。言葉や歌をわかろうとするというのはそういうことだ。こうであってほしいという手前勝手な願望を、相手に押し付けることとわかろうとすることとは無縁だ。そうであってほしいという願望を抱いたとき(たとえば神や幽霊がいてほしい)すぐそれがそうであることになる(神はいる。幽霊はいる)短絡癖が、川向うの信じるといふことと同じにいわれる。「陰謀論」では事実そうとわかれば安心だからそのおのが心が根拠だということになって未詳の事実までそうということになる。これは信でなく不安というべきだ。神社巡りや歴史考察に熱心なひとびとは、けっして信心深いのでなく不安がそうさせている。キルケゴールは「教会は異教徒をさし罪深い人々というが、これは教会が自らを失くし、相手に自らを与えているのと同じだ」という「なぜなら、キリスト教の核は罪であって、正しくはその罪をもたない人々のことを異教徒と呼ぶのだから。彼らはただぼんやりと罪の予感の手前、不安のうちにあるというべきだ」