音楽には理論がある。音楽家になりたかったわたしには、本能だけで曲をつくることも、理論の上で曲を書くこともできなかった。エレキギターの申し子ジミ・ヘンドリックスは楽譜がよめなかったというが、たとえ「言語化」できなくとも、言葉にできない彼の経験に理論がなかったということはまず考えられない。WALKMANにもし1アーティストしか容れれないとなったら、彼がその演奏をきくために皿洗いのアルバイトをしていたというアート・テイタムと悩み抜いた上でわたしの選ぶチャーリー・パーカーは、理論開拓者だ。この不幸な兄貴から勝手に学び取ったアティテュードを生涯貫いたマイルス・デイヴィスも、彼がみつけたときは芋い田舎のサックス吹きにすぎなかったジョン・コルトレーンももちろん大理論家だった。最高の音楽家モーツァルトだって理論は朝飯前だろう。みんな大好き(ぼくは嫌い)ビートルズ、かれらはちっとも理論を知らなかった。たぶん不名誉とひきかえに音楽からの寵愛をひとりじめしているカニエ・ウェストも理論はさっぱりだとおもう。彼らにはいわば生得の理論がありそれを奏でることはできても言葉にすることはできないので、かわりに彼らから理論をひきだそうとするオンチどものひこえばえすることとなる。令和の京極殿・米津玄師はたぶん理論の変態だ。理論に通じているかどうかは、良いアーティストの条件に関わりない。だが、理論(言葉にできる)なければこの世のいい音楽は少なくとも減りはする。ビートルズがきけてもバードのきけない世はさぶい。

理論は無力なのがいい。わからなくても何の支障もなく、わかったところでそれでどうということもない。実践も意味がない。けっきょく本能に任せて書くだけだ。わたし自身そうだ。だが、ほんのたまに、求めてもなかったとき、八咫烏のごとく導くかもしれない。八咫烏も無力だ。ただこいつ自身が無力なゆえに、その奥にふしぎな逆光線をおってくる。