A
B
C
D
E
F
G
スーパーでレジに向かうと、そのレジには並んでいるおばちゃんが1人だけいて、おばちゃんは並びながら、レトルトのパスタソースを見ている。どうも気に入ったものがなかったのか、おばちゃんは並んでいる商品から目を離し、周りをキョロキョロ見て、自分がレジ待ちの列の先頭にいること、その後ろには僕が1人だけ並んでいることに気づいて、僕に先頭を譲る素振りをした。「いいんですか?」と僕が聞くと、「いいんです、商品を見てただけですから。」と、申し訳なさそうにはにかみながら、僕のすぐ後ろに並んだ。「ありがとうございます」と言って、僕は今まさに空いたレジに向かった。
でも、この「ありがとう」は、一体何に対してのありがとうなんだろう。だって、本当におばちゃんがレジの近くの商品を見ていただけで、並んでいたわけじゃないのだとしたら、この列に並んでいたのは僕だけなのだから、僕が次に会計できるのは当然のことだ。僕は並んで、ただレジまでたどり着いただけ。おばちゃんは先頭を譲ったのではなく、商品を見終わって、ただ列に並んだだけ。
それは、おばちゃんの誠意への「ありがとう」だ。おばちゃんは商品を見終わって、そこがレジの列の先頭だと気づいた時、そのまま先頭にいることだってできた。「並びながら、たまたま近くの商品に目をやっていただけ」ってことにして。事実、僕の目からはそう見えていたのだから、おばちゃんが先頭に居続けたとしても、僕は何にも思わなかった。でも、おばちゃんの中では、おばちゃんは並んでなかった。だから、ちゃんとその場所を退いて、列に並んだ。そのおばちゃんの誠意に、「ありがとう」と言ったのだと、じゃがいもを袋に詰めながら、分かった。
でも、どうしておばちゃんの誠意に対して、「僕が」ありがとうなんだろう。
それは僕も、世界に対しての責任を引き受けているからだ。おばちゃんは間違いなく、同じ責任を自ら引き受けている。おばちゃん自身が気付いてようがなかろうが、おばちゃんは真っ当に列に並ぶという行為で、自ら引き受けた責任を立派に果たした。そんな同志に、同志であることに、僕は「ありがとう」と言ったのだと、信号を渡りながら、分かった。
「礼を言われる筋合いはない。俺はただ岩を蹴っただけだ。その下でお前が潰されていたことなど知るはずもなかったのだ」
「そうでしょうとも。それでも私は確かにあなたに助けられました。」
「俺はお前を助けるつもりで蹴ったわけでない。お前は単に運が良かっただけだ。ありがたがるのなら自分の強運に向けてしておけばいい。」
「あなたの行いが善意からなのか、それとも悪い企みの下に行われたものなのか、はたまたそのどちらでもないのか、それは私にとってどうでもよいことです。私はあなたの善意に感謝しているわけではありません。あなたが岩を蹴って下さったおかげで私は這い出て来られた、この感謝はただそのことに向けられてなのです。」
「それではお前は、誰かの善意にではなく、ただお前の為に感謝すると言うのか」
「ええ、いかにも」
「ということは、だ。つまり君は自分が特別な人間だと思っているのだな?」
「そう簡単に片付けてくれるな。まあ、しかし、事実そうとしか思えないのだ。それとも誰しもがこんな苦悩を抱えながら、それでも平気な顔して歩いているとでも言うのか?」
「君は自分の苦悩に酔っているのだな。このような苦悩は自分だけが味わっていると思わないと自分を保てない、子供染みた被害者意識だ。最も愚劣な意識のひとつに違いない。」
「そういう君はどうなのだ?人のことを偉そうに断罪できる身分なのかね?」
「生憎、私は自分は特別な存在だなどという安っぽいヒロイズムは持ち合わせていなくてね。苦悩がないなどとは言わん。言わんが、誰しもが各々の苦悩を抱えているに過ぎない。なるほど私の苦悩は私にしか分からないだろう。しかも私にとってそれは、この世界と全く同じだけの重みを持っているのだということは認めよう。だが、それが一体なんだと言うのだね。誰しもが皆そうなのではないかね?」
「なるほど、君は自分が余りにも平凡だと嘆くことで、逆説的な優越感に浸っているのだ。しかも自分が特別な存在などではないと宣言することで自分を守っているのだ。そうやって君だけに課せられた責務から目を逸らしている分、私よりもよっぽどタチが悪いと思うがね。」
「では、君のように愚にもつかないお遊戯会でもやれと言うのかね?君のように、自らを病人と称することによって、まるで全ての罪を免れられるかのように振る舞えと言うのかね?」
「私はただ、判事の席から降りて来いと言ってるのだ。全ての弁明は被告人の立場から発されるべきだ。」
「まるで証言台に立つことが既に一つの免罪符であるかのような口ぶりだな。君は本当にその裁判を真摯に受けていると言えるのかな?もっと辛辣に言おう。大事なのは君の言うその法廷とやらの、どの席に座るかではない。この世界で実際に何を為すかのみが価値なのだ。」
「分からず屋だな。君とこれ以上話していても平行線のようだ。まあ、よしとしよう。君がその悪質なナルシズムによって自分の醜さを隠したままで一体何が出来るのか、拝見させてもらうよ。だが、一つだけ、忠告しておこう。君がその高い判事の席を追われたとしても、間違っても傍聴席には逃げ込まないことだ。そこには何もないぞ。」
「逃げるのだな。相変わらず高慢と欺瞞に満ちた態度だ。それなら私は君のその弁明とやらが何を変えられるかを拝見するとしよう。その裁判が君の自己満足でなければいいがな。そうだな、私も君に倣って一つ忠告をくれてやろう。あまり頭の中の観念に囚われないことだ。なるほど、君は頭がいい。だがそれが長所となるとは限らない。観念を幾ら分析してみたところで、所詮はただの戯れなのだよ。君の言うような法廷など、本当はこの世界のどこにもないのだということを呉々もお忘れなきよう。
ほら、見たまえ、窓の外を。木々が日に日に緑をつけているぞ。」