「それから、桃色に染まる」

原凌


 小さい頃の、思い出だ。まだ、小学生になりたての頃のことだと思う。叔母のお家に遊びにいき、そこではじめてDVDを見た。作品は、『パイレーツ・オブ・カリビアン』。今でも好きなディズニー映画だ。この映画の或る場面のことを思い出していたら、ふと、別の思い出が蘇ってきた。

 映画のおともに、叔母がジュースを用意してくれたのだ。それは、透明なグラスに注がれた、桃色のジュースだった。普段、ジュースを口にすることのなかった僕にとって、ジュースとは、それだけで、お祭りを予感させる、胸躍る供物だった。

 ここで、魔法のようなひとときが訪れる。叔母は、グラスに別の液体を混ぜた。すると、桃色のジュースは泡をシュワシュワと噴出したのだった。そう、叔母は、炭酸水を混ぜ合わせ、炭酸桃ジュースをつくりだしたのだ。その一連の行為、それからはじめて飲んだ桃炭酸ジュースの味わい、映画を見る前に、ぼくは幸福だった。

 それは、魔法だった。目の前で、はじめて見たのだ。何かと何かが、混ぜ合わさることによって、別の何かが生まれるという神秘的な光景を。あの夏の、グラスに注がれた炭酸桃ジュースが生まれる瞬間、ぼくが感じた歓び。これは、ぼくの物学びの姿勢の、原体験だったのかもしれない。


 小学生の頃、サイエンスクラブに入っていた。外で遊ぶことが好きだったのだが、なぜか放課後活動でサイエンスクラブを選び、がらんとして無機質な黒い机にむかって、幾人かと液体を混ぜ合わせていたのを覚えている。弱酸といわれる炭酸水がいかに酸っぱいのか、どのくらいシロップをかけあわせることで、市販のメロンソーダになるのか。あの、黒緑の粘着性・・・・。

 中学受験を通じて、理科に苦手意識が芽生えてしまったにもかかわらず、化学系の学びは大好きだった。数学にいたっても、水溶液の飽和度の問題が、なぜか好きで、本番の入学試験でも、水溶液の問題を見た瞬間に心躍りしたことを、今思い出した。

 中学になってからも、化学が好きだった。原体験の歓びという根っこをもった学びが、いかに長持ちするか、分かる。逆に、物理や地学、生物は、原体験としての歓びと、その記憶はあったにもかかわらず、それを忘れて遠ざかってしまい、暗記やら機械的な計算をすることで感性を麻痺させてしまっていたのだろうと思う。高校生になっても、教養総合という授業でも化学の授業をとった。それは「化学オリンピックに挑戦しよう」という科目で、実力を大幅に超えた難問ばかりで、挫折したことを覚えているが、今振り返ると、自分がそのような科目をとったこと自体に、驚きを感じる。高校二年秋、文系を選択することになり、無機化学がはじまったところで、化学の学びから離れてしまったのだった。

 文学においても、ぼくは化学者が好きなだと気づいたのは、つい最近のことだ。作品を読むという行為について、ヴァレリーが語った言葉が胸にささった。

芸術の諸作品を考える時、私はいつもこの物体(原注:触媒)のことを思う。他のいくつかの物質からなる混合物のなかにこの物体が現前するだけで、これらの物質は互いに結合するが、しかし、この物体の方は変質せず、同じままであり、性質を変えることも量を増減させることもない。したがって、この物質は現前していると共に不在でもあるのであり、作用はするが作用されることはない。作品のテクストもこのようなものである。テクストが現前することによる作用は、人々の精神をそれぞれの性質と状態に応じて変化させ、頭脳のなかに潜在していた諸々の結合を呼び起こす。しかし、こうして作り出される反応がいかなるものであれ、テクストはもとのままであり、別の状況ないし別の個人において、また異なる現象を何度でも引き起こすことができるのである。


 作品を通じて、ぼくの中でどんな化学反応がはじまったのか、その反応によって、人生がどうなっていくのか、ぼくにとっての問題は常にここにある。それと同時に、作品を通じて作者へと至る批評、作者の精神における化学反応を知り、追体験しようとする批評が好きなのだ。小林秀雄も本居宣長も、こうした想像的な化学者だった。そしてもう一人、大学院生の頃に出逢ったユングがいる。ユングは分析心理学をはじめた人だが、研究を進めるなかで錬金術に出逢い、化学のもとになったこの学問を、内的人格形成の象徴的な過程と捉え、心理分析の重要な素材として研究していた。ユングが好きになりだしたころ、錬金術のことは知らなかったが、ある日、ユングの文章を読んでいて、彼が錬金術のことを語ったとき、ぼくは内側からこみあげるわくわく感、探し求めていた扉にやっと辿り着いた感覚を覚えた。

 自分のなかにある結合反応はもちろん、子どもたちの出逢いにはじまる化学反応を見るのも好きだ。思いも寄らぬ形でむすびつき、かわってゆく人間。ぼくは何をしていても、錬金術師の目線で物を眺めるのが好きなのかもしれない。そう、六歳の自分に教えてもらった。

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