橋乃話(はしのはなし)

市村剛大



  小渋橋

大鹿村騒動記は小渋橋を背に原田芳雄が佇むシーンで終わる。この橋は長野県の道路技師であった中島武により1956年に発案された、鉄筋コンクリートローゼ橋と呼ばれる工法で作られた橋である。この形式の橋はそのほとんどが長野県に存在している。

長野県では、山がちな地形も相まって悪天候時などは川の流れが急になることが多い。なるべく橋脚の数を減らす必要があり、平たい橋よりも距離が稼げるローゼ橋が選ばれることが多い。それまでのローゼ橋は多摩川にかかる丸子橋のように鉄骨で作るのが相場であったが、戦後の日本では鉄が手に入りにくかった。コンクリートを使って鉄の使用量を減らそうという工夫から、鉄筋コンクリートローゼ橋は誕生した。

小渋橋は三連の立派な橋だが、そうでなくとも古びてお地蔵さんのように黒ずんだ、名も知れぬコンクリートローゼ橋が町の端っこに鎮座している長野県の風景。吊り橋のように目を引く橋ではないが、いつまでも安定してそこに存在し続けるモノのような感じがする。

おそらくもう鉄筋コンクリートのローゼ橋が新築されることはないのだろう。大鹿村騒動記のラストシーンでこの橋を見たとき、長野県南部のあの感じを瞬時に思い出した。郷愁というやつなのかもしれない。大鹿村騒動記の監督も別に長野県出身ではないのにこの橋をラストシーンに選んだのだし、『君の名は。』でも田舎の風景として佐久のコンクリートローゼ橋が登場するシーンがあるらしい。この橋は、日本人の集団的無意識の中の故郷にかかっている橋なのかもしれない。


  聖橋

関東大震災のあと、戦争が始まるまでにつくられた、重厚なコンクリート建築らが好きだ。小さいころに見たイラク侵攻や貿易センタービルのテロ、北朝鮮のテポドン開発のニュースに影響を受けたのかもしれない。小学生のとき、ミサイルが飛んで来たらこのアパートは大丈夫だろうか、とよく考えていた。

ポケモンセンターに行くために初めて東京駅を訪れた時、豪華な東京駅よりもその隣に無骨に佇む東京中央郵便局に心を打たれたのを覚えている。東京の郵便局はこんなに大きくてしっかりしているのかと感銘を受けた。郵政民営化に伴う再開発によりなんとも見窄らしい見た目になってしまったが、この郵便局こそ巨匠ブルーノ・タウトも唸った震災後モダニズム建築の代表作である。麻布学園の校舎も同時期の建築で、中央階段、円形トイレなどの全てが石でできている感じ、不必要なまでもな重厚感がとても好きだった。震災後、戦争が始まると国威発揚のために帝冠様式と呼ばれる日本的な意匠をあしらった建築が台頭し、モダニズム建築が再興するのには戦後を待つこととなる。ただ戦後のモダニズム建築は良くも悪くもスタイリッシュで、戦前のモダニズム建築が持っていた独特の重厚感は失われた。

お茶の水の聖橋も、代表的な震災後建築の一つだ。外堀に元からある岩を削り出して作ったかような佇まい。何も飾らないのっぺらぼうのコンクリートの打ちっぱなしのような見た目。どんな地震や戦争があってもびくともし無さそうな重厚感がとても好きだ。お茶の水の落ち着いた空気は、聖橋の持つ大きな体積から滲み出ているのだと思う。

この聖橋、アーチ部分は鉄骨コンクリート造、それ以外の部分は実は鉄橋である。鉄橋部分はコンクリート造に見せるためにわざわざコンクリートで被覆しているそうだ。歩道を通ると上の鉄骨が見える部分があり、よく分かる。関東大震災で建物が崩れるのを数多くみた東京の人たちを少しでも安心させるために、細く頼りなく見える鉄橋そのままでなく、コンクリートを厚化粧したのかもしれない。そして現代でも、少なくとも自分はその安心感を享受しているのだ。


  小石川橋

小石川橋は水道橋駅を出て線路沿いに少し歩いたところにひっそりとかかっている。どこにでもあるようなただの橋にしか見えず、実際今かかっている橋は防災上の理由で2012年に急ごしらえで掛け替えられたものだそうだ。ここはかつては外堀を渡って江戸城に入城するための数少ない橋の一つだったはずだが、今は見る影もない。

今では外堀を見境もなく無数の橋がかかっている。先ほどの聖橋もそうだ。かつては幕府の関係者と庶民を分け隔てる重要な境目だったのだろう。お堀の向こう側とこちら側、今では少し考えないとどちらが江戸城側かわからない。

小石川橋の江戸城側には小石川門があったが、幕府崩壊後、不要なものとして取り壊された。その際に出た石垣は日本銀行前の常磐橋を作るのに使われた。常磐橋は古い江戸を感じさせない、とても西洋らしいアーチ型の石橋で、奇しくも同じく外堀にかかる橋だ。近代化に向けて旧来の日本のものは壊し、西洋的なものに変えていこうとした国の意思を感じる。

この常磐橋だが、地震のたびに壊れる。関東大震災でも、この間の東日本大震災でも壊れ、その度に多額の費用をかけて修復されている。煉瓦造、石造といった重力によって構造を保つ建築物は地震に弱く、日本には合っていないのだ。明治期日本の西洋かぶれの象徴のようにも思える。

かつては威厳のある橋だったのに、取られるものは取られ、なんの取り柄も変哲もなくなってしまった小石川橋だが、お荷物の常磐橋とは違い、今では文京区民の日々の交通を淡々と背負っている。なんだか応援してあげたい気分になる橋である。

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