呪い

白石火乃絵



 詩の作者として少しいやなことがあった。又、雑誌編集者としても。これを気にしないで済ますことは、どうやらわたしには不可能であった。現在、わたしは詩を発表することもできなければ、雑誌に自らの文章を掲載することも、できなくなっている。
 ようするにもう死んでいる。
 以下は呪いにすぎない。


  1 創作、カタチ、いのち

 意識的に創作をはじめたのは20歳の春からであった。無職でアルバイト生活をしていた前年に悪性腫瘍の疑いで入院。手術をおこない、結果静脈瘤を摘出。その病牀にいるとき、入院日の早朝の失恋劇もあいまり(付き合うということになった三日目に、わたしを拒絶したアルバイト先の年上の女性は、もうひとりの女の先輩を伴って見舞いにも来ていた)、もし生きて街に帰ることができたなら、創作を人生の真ん中に据えよう、と心にきめた。

 七年かけ、『崖のある街 -Deluxe Edition-』をインターネットを介し発表した。後半にある散文の「ロスタイム」という章の部分が、創作をじぶんに約束した20歳の春から夏の終りにかけて書かれたいわば処女作にあたるもので、それ以降、じぶんで納得できる詩を一篇、かけるまでずいぶん時間がかかった。「ロスタイム」が当時の環境(日大藝術学部文芸学科)にあって「これは小説ではない」という不合理な評価に了ったことで(はじめから小説を書いたつもりはない)、みずからの表現を小説(と呼ばれるもの)に近づかせてみたり、詩(と呼ばれる)ものに接近しようとしたり、ようするに、すでに交換の場がひらかれている(ように見える)ところに、アジャストすることにやっき﹅﹅﹅であった

 だいいち、創作をして生きていこう、という決意と、創作を専科としている大学に行く、ということは全く別の事だ。そこを一定期間の環境として択んだのは、アルバイト生活のなかでの創作の不安につきあたっていたことによる。起きてから眠りにつくまでの大部分を創作と作品鑑賞にあてたいというかねてからの欲望に、芸術系の大学の学生になるという意想外の手段が二人のべつべつの友人をとおして偶然招来し、両親からのバックアップも得られた。ある限定された情況からぬけ出すのに、当時のわたしにはこうするほか手立てがなかった。ようするに創作するということがなんたるか、あたりまえだが、わかっていなかったのだ。ここではコンフォートな生存が比較級でさきに考えられたといっていい。

 さて、この選択の先にあったものは、「きみのは、小説でない」「詩でない、文学でない」それどころか「文章になっていない」、というOver Thirtyからの評言の数々。だが、これにやっき﹅﹅﹅になってはいけなかった。ひとえに初期衝動に忠実であればよかった。わたしの原点は、創作でも文学でも小説でも詩でもなく、──文化祭と恋とPunkだから。

 かつて高校の「世界史」の修論でラモーンズについて書いたとき(もちろんこのバンドは世界史に刻まれてしかるべきだ)、主観ではなく客観を、とつき返されたのをおもいだす。令和風にいえば「それってあなたの感想ですよね」というやつ。感想を感想に了らせない装置が〈小説〉や〈詩〉などてふカタチなのだろう。恋愛には本来カタチなどいらぬはずが、世間は〈結婚〉という証文カタチをつくった。これが創作─執筆においての〈出版〉に当る。そのラベルとしての〈小説〉〈詩〉だ。さらには〈純文学〉〈エンタメ〉〈ラノベ〉〈短歌〉〈俳句〉〈現代詩〉乃至〈批評〉。ひとはどの村に入るか決めてから、その畑で作物をうむ。畑では米はとれないし、田んぼで野菜はつくれない。するならば二毛作。輪作。転作等々。

 そこでわたしは考えた。なるほど、主観や感想を、客観ブツ化してくれるのは自然だ、と。人間は自然とあいわたりながら、農耕という科学を手にいれた。するとこんどはその技術をもうひとつの自然としてかんがえ、技術に沿ったことをするようになる。人間を豊かにするのは、いつの間にか、自然でなく技術であるような錯覚が、やがてはさらなる人間の自然となる。プラトンの想像界─現実─創作フィクションという考えに似せれば、三番目の自然ということになるか。恵み─技術─錯覚。こうもいえる、一次産業─二次産業─三次産業。四番目に来るは、情報(記号)、すりかえ﹅﹅﹅﹅、第四次サン業(IT)。アジア的─ヨーロッパ的─アメリカ的、四番目はグローバル(のっぺらぽう)。ところで、ゼロ番目にあたるものは、母なる自然─草原のアフリカ─海の時代(海洋民、原ケルト、縄文人etc.)。0と1あいだに神々─父なる自然─大文字の神などが生まれた。創作とは、この結果を忘れ、0から1を生もうとする、いのちとのメイクラヴでなかったか。──カタチから入る恋愛などげれつ。

 だからわたしは「結婚前提」とゼッテーした。

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