犬が飼い主に似るとき、飼い主もまた犬に似るか

市村剛大


犬は飼い主に似るという。飼い主は犬に似るとはあまり言わない。なぜだろうか。犬「は」飼い主に似るというとき、「は」は主格に対比のニュアンスを与える助詞であるから、暗に飼い主は犬に似るとは限らないということをいっているように感じる。「似る」とはどういう意味だろうか。似るというのがある点とある点の距離が近いという事実を表すだけであれば、犬は飼い主に似るならば飼い主は犬に似るという命題は明らかに正である。ただ、似るという言葉は動詞であるから、ある点がある固定点に近づいて行くという動きを表す品詞であろう。ある点とある点の距離が近いという事実を示すのはおそらく「似ている」である。犬は飼い主に似ているというと、少しだけ違和感を感じるのは、おそらく犬は飼い主に似ているならば飼い主は犬に似ているという命題が正になるからであろう。犬と飼い主は似ている(ものだ)のように、並列に並べる「と」を用いると違和感が薄れる。似る、という言葉が動詞であるからには、動きとは時間の経過による変化のことであるから、時間の経過が意識されているはずだ。ここでは犬が飼い主と過ごした時間であろう。これらを踏まえつつ、犬は飼い主に似る、をより詳細に表現すると、ある人間Aの容姿や動作の特徴量ベクトルがxA(時間経過より不変である)、人間Aに飼われている犬Bの、容姿や動作の特徴量ベクトルがxB、飼い始めた時刻をt0とするとき、飼われてからの時刻ΔtによるxBの変化量xB(t0+Δt)-xB(t0)とxAーxB(t0)の内積が正となる、になるのではないだろうか。ここで一つ疑念が生じる。人間の容姿が時間経過より不変であるという点である。犬と過ごした時間が十分に短い場合は工学的に近似可能であるから無視できるだろうが、犬は1020年生きたりもする。1020年ではさすがの人間も多少は老けるだろう。ここである一つの仮説に行き当たる。この座標系は「人間の老いによる容姿や動作の特徴量」の変化方向に動く慣性系なのではないかと。確かに人間は誰しも似たように老けるので、その人基準で考えれば同い年の人は老けていないのである。人間は、どこまで自己中心的に考えられる生き物なんだ、と少し感慨深く思う。仮にベンジャミンバトンがこの言葉を聞いた場合、人間の特徴量ベクトルも動く。もしベンジャミンバトンと話す機会があれば、犬と飼い主は互いに似る、といった方がバトンの腑に落ちる表現となるだろう。(終)

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