フィールドワークとして生きる

村上陸人



 先日インスタレーションの看視員をした。真っ暗な部屋のなかで展示台とスクリーンだけが光を宿す。そこで感じたことをそのまま記す。


作者は作品の一部に
 アーティストトークというイベントで、アーティストが展示について解説をしていた。その作品解説を聞く前後では、同じものをみても感じることが異なる。作品について語ることで、作者は鑑賞体験を構成する一部分となっていた。

鑑賞者は作品の一部に
 看視員視点からは、鑑賞者が展示台に近づくと鑑賞者自身に光が当たり、展示台から離れると鑑賞者が暗闇に消えるように見えた。展示室内に鑑賞者がいるときといないときでは、同じ作品が違ってみえる。その意味で鑑賞者は他の鑑賞者の体験を構成する一部分となっていた。

看視員は作品の一部に
 私はスタッフとして看視のお手伝いをしていた。平日サラリーマンをして、休日看視のボランティアをしていることに、作者に「稀有な人ですね」と言われたことがあった。同じように珍しがられることがしばしばある。私のような看視員が展示を案内した場合と、作者自身が案内した場合では、鑑賞者の体験は異なるだろう。その意味で看視員は鑑賞者の体験を構成する一部分となっている。

作品は人の一部に
 作中に手紙が登場する。その手紙は、小学校二年生の作者が現在の作者に宛てる形式をとっている。作者の生の一部が表現されるという意味で、作品は作者の一部から生まれているのだが、現在の作者が手紙を受け取ったとき、作品は作者の一部へと帰っていく。
 鑑賞者は作品のあり方に影響を与えていた。看視者も同じだった。展覧会が終わったあと、彼女/彼が戻る日常には、自らが影響を与えた作品の陰影がある。作品とともに生きていくという意味で、作品は鑑賞者と看視者の一部になっていく。

人は作品の一部に
 同じことがこの雑誌にも言えのではないか。つまり、読んでくださるみなさんは何らかの形で私たちに影響を及ぼし、既に雑誌を構成してしまっている。

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