シンフォニック・エッセイ

原凌



その5「貞雄の記憶」

 以前、貞造ていぞうの葬式について書いた時、秀雄の実の弟、貞雄さだおのことに触れた。貞造の死後、葬式も間近の晩餐に、親族の面前で、はばかる事なく、亡き人を批判していた人物である。貞雄について、私が父から話を聞いた時にも、その人柄に心惹かれたが、エッセイを読み進めていて、さらにこの大伯父のことが好きになった。
 貞雄は、原政雄二人目の子である。貞雄が何年に生まれたのか、精確な所は分からない。秀雄の従軍生活中に、貞雄は大学を受験をしていたようだから、一九二五年前後の生まれだと思う。貞雄は大学に入るやまもなく徴兵され、大陸での戦闘を経験した。復員後、早稲田大学を卒業し、故郷にほど近い、諏訪湖のほとり、岡谷にある女子高等学校で英語教師を定年までつとめた。岡谷では教師を務める傍ら、農業にも熱をいれていたようだ。「トマトはこんなにも甘いのだと、岡谷の叔父の家にとめてもらった時に、初めて知った」という父の言葉を、僕は記憶している。
 農業に加えてもう一つ、貞雄が熱をいれていたものがある。それは、絵を描くことだった。「いい絵を描く。戦争で中国へ行ったときにそこの風物が気に入ったらしく、最近は中国へ何度も渡り、そこの風景画を描いている。旅費や画材費くらいは絵で稼ぐことができるらしいからたいしたものである。そのうち東京で個展を開こうという意気込みである。」
 父から、逸話として、「貞雄さんは、よく中国に行っては絵を描いていた」という話を聴いた時、物好きで片づけられない何かを感じたのだが、貞雄にとって絵を描くことは、どうやら趣味と呼べるようなものではない、ぼくはエッセイを読み進めていくにつれ、この確信を強めた。農業、戦争体験と中国、絵画。率直で、偽善の少ない人間。そしてもう一つ、付け加えなければならないもの。彼はアルコオル中毒だった。

 貞造の告別式のことである。仙峡閣に携わった者のほか、参列した幾人かの、地元の人達の中に、古い農家の当主で、元陸軍少尉の塩沢米男という男がいた。塩沢氏の訪問とそれにつづく出来事は、秀雄の心に、深く刻まれた。それは、エッセイに書き留めてられている。「少尉は広間に入って来て画伯を見つけ出すやいなや、「おーっ」とえながら大手を広げて歩み寄って画伯を擁し、久闊を叙した」。その様子に、「まわりにいた人たちはいささか驚かされた」という。とっくに老年も過ぎた男同士、しかも血のつながりもない者同士が、久しぶりに逢って、「おーっつ」と吼えて、抱き合う光景。これは、ほとんど見られない光景だ。「驚く」のも当然だ。当然だと思う、それだけ、ぼくらは貧しくなってしまったのだろう。
 秀雄は後に、塩沢氏と貞雄との間柄について、弟に問い、弟はそれを語った。その話は、エッセイにも書き留められており、ぼくにとっても、初めて読んだ時から印象深い話だったのだが、ある盲点に気づき、驚いている。書くことを通じて立ち止まり、想像を巡らそうと努めなければ、決して気づけなかったこと。それは、こうだ。貞雄は、この話を四十年以上も語らずにいた、ということ。エッセイには、秀雄が貞雄に聞き取ったところを、書き留めているだけだった。話そのものが興味深く、そちらに気が向いて他のことに想像が働いていなかった。非常に仲のよい兄にさえ、七十になるまで知らなかった話なのだということ。兄に口にしていないのだとすれば、他の誰にも語っていないだろう。もし、塩沢氏の訪問がなければ、死ぬまでこの話を誰かに語ることはなかっただろう。彼は、「戦争で中国に行ったときにそこの風物が気に入った」故、中国に絵を描きに行った、そうした類の画家ではない。四十年。その沈黙に、想いを馳せること。そしてまた、それを四〇年経って、初めて弟から知らされた兄が、付随する感想もなしに、淡々とその話を書き留めた。その沈黙にも思いを馳せること。長い間、二重の沈黙に気づけなかった。

 一九四五(昭和二十)年の晩秋、華北新郷シンシャンの南、黄河北岸のある寒村。第二次世界大戦はとうに終わっていたというのに、塩沢少尉ひきいる鉄道守備の歩兵の一隊約六十名は、国民政府軍と中共軍の内戦に巻き込まれ、戦っていた。敵は優勢な八路軍だった。敵軍に包囲されていた塩沢隊は、塹壕ざんごうによって、辛うじて敵の攻勢に耐えていたのだが、既に幾度かの襲撃を受けていた。頼みの火器といえば、ほとんど小銃だけ、弾丸も乏しく、かてて加えて、折からの霖雨りんうで壕は水浸しだった。「鉄兜てつかぶとで水を汲み出しながら」の戦い、味方からも忘れ去られ、大義名分もない、なんと惨めな戦いだろう。なんのために戦っているのかも知らぬ。塩沢隊長以下隊員みな、最期を覚悟していた。
 重機関銃隊十名が、駆けつけたのはその時だった。敵の包囲の間隙かんげきを縫い、救援に馳せ参じる。重機関銃による威嚇射撃は、火器に乏しい八路軍をして、強力な援軍到来と判断せしめ、軍は前線を後退、塩沢隊は死地を脱した。国民政府軍と守備を交代し、捕虜収容所を経て、故郷に復員することとなった。若き伍長、原貞雄である。

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