この町と僕と世界のはなし

金輪際茂男



Ⅰ 魔王討伐

「1999年7月、空から恐怖の大王が降ってくる。」
 世紀が切り替わった少し後、僕は一つのゲームを買ってもらった。それは、魔王の軍団に侵略された王国を舞台に、前王の忘れ形見である王子が、仲間を集めながら旅をし、王国に平和をもたらすため魔王討伐を目指す、という割とありきたりなものだった。ただ一つ、その時までに遊んだどのRPGとも違ったのは、一度死んだ仲間は二度と生き返ることはなく、ある仲間を失えば、次のステージから彼はもう登場しなくなるということだった。○○センターや教会に駆け込めば、何度でも仲間が復活するRPGしか遊んでこなかった僕にとって、それはあまりに決定的な違いだった。
 ただ一人の仲間も失わずに魔王討伐を果たす、と胸に誓った僕は、通常の何倍もの時間をかけ、遠回りに遠回りを重ね、しかし確実に、魔王討伐への旅を続けていた。そんな僕たちは、あるステージで残酷な選択を迫られることになる。そのステージは、パーティーの誰かひとりを囮として置いていくことなしには、決して切り抜けられない戦況だった。熟練の老兵を置いていけば現戦力が大きく下がる。かといって、まだまだ大きな伸びしろを持つ若い兵士を置いていけば、後々戦力不足に陥る可能性が高くなる。きっとこんな葛藤をさせることが、ゲーム設計者の意図だったのだろう。しかし、僕たちにとってそれは、戦力の問題などではなかった。僕たちは、誰ひとり失わずにここまでやってきて、これからもやっていくと固く誓い合ったパーティーなのだ。
 僕がひとりで残る、と言えたなら幾分か楽だっただろうか。しかし、それは許されなかった。僕は前王の遺児であり、魔王討伐の後、王国を再建する役目を負っていた。僕たちはそのステージに留まり、何も出来ないまま、三日三晩考えた。(当時、3日間も布団にくるまり云々唸り続けていた僕を見て、親は病気を心配したかもしれない。)
 僕には、魔王討伐と王国の再建という使命がある。それは僕にしか果たせない義務だ。ここで立ち止まることは決して許されない。判断を一任された僕は、4日目の朝、決断を下した。その若い兵士は、恨み節の一つも漏らさず、むしろ栄誉だと言わんばかりに、立派に役割を果たした。僕たちは彼のおかげで、からがら次のステージへ逃げ延びた。
 次のステージで、彼のいないパーティーを見て、僕は自問した。僕の判断は正しかったのだろうか。そもそも正しい選択肢などあったのだろうか。彼はどのような気持ちで最期を迎えたのだろうか。何かを失うことなしには切り抜けられない状況が、ときには存在する。目的のためには、何かを犠牲にしなければいけないことがある。彼の死は無駄死になんかじゃない。許される選択肢の中で、最善を尽くす以外に僕にできることはない。だけど、この「だけど」を僕は本当に無視したままでいられるだろうか。
 僕はそこでゲーム機を置き、以来このゲームソフトは二度と起動していない。ずっと、夏休みの宿題を終わらせないまま冬を迎えてしまった、そんな気分なのだ。ただ一つ確かなことは、僕が諦めたあの世界では、今でも王国の民たちが、魔王の恐怖と暴力の下で暮らしているということだ。


Ⅱ アリストテレスの幸福論

 さて、今回そして次回、私はこの章で、ある教科書的文章を記すことにする。私が思うに、この世で教科書ほど退屈な読物はない。
この文章が教科書的意義を持つために、構成にも気を遣ったつもりだ。それは、具体的には、各章ごとに、おおよそ標準的な解釈を述べるに留め、私自身の解釈が多分に含まれると部分についてはそれを後述にまわし、読者の理解を妨げない限りにおいてのみ、自らの見解を含めるよう努力した。ゆえにこの文章には、末尾においては、ほとんどの読者にとっては読み飛ばして構わない段落が存在する。
 私が今から書くのは、古代ギリシアを生きたアリストテレスという人物の、その講義ノートを基に編纂された、『ニコマコス倫理学』という書物についてである。先程も述べた通り、その本についてのこの教科書的説明は、ほとんどの人々にとって、実に退屈なものである。教科書とはそれ自体は退屈であって、ある特定の何かを求める人にとって、という条件の下で、初めて重要なものだと思われる。

 さて、『ニコマコス倫理学』を読むにあたっての注意点を先に述べておかなくてはならない。これは他ならぬアリストテレス自身によって述べられている、倫理学の手法と厳密さへの注意である。
 まずアリストテレスが述べるところによると、倫理学とはまず、私達にとって明らかな物事への観察から始めなければならない。そして私達にとって明らかな物事の観察を通じて原理を探求するという、いわば経験的な物事からの帰納的方法によって進められなければならない。そして組み立てられる理論体系は、その出発点であった諸々のことと整合的であることが求められるのだ。
 次に、学問に求められる厳密さは、その学問が研究の対象とする物事に依っている。これは、幾何学と大工が求める直角は異なる厳密さを要求することに例えられる。幾何学者が研究の対象とする直角は、唯一の、定義通りの、何一つの乱れもない完全な直角である。それに対し、この世界に完全に直角な実物などは存在しない。大工が求める直角は、家を建てるという目的を達成するのを妨げない限りの厳密さでよいのである。倫理学が対象にするのは、私達人間自身や、私達が人生で行う活動などであり、それらは個別的かつ具体的であるがゆえ、ゆらぎが生ずる。よって倫理学に求める厳密さは、幾何学のそれとは違い、若干のゆらぎを許容するものである。倫理学が発見する倫理規則とは、大体の場合成立するのであればよいのであり、それ以上の厳密さを求めるべきでない。
 さて以上の二点は、必ずしも倫理学全般に当てはまるとか、おおよそ全ての倫理学理論が同調の声をあげるといったものではない。むしろ、多くの論者、例えば普遍的な義務を基礎に理論体系を組み立てることを目指す論者からは、到底受け入れられない、絶対的に誤った手法だと非難を受けるだろう。なので、この二点はあくまで、アリストテレスが採用する倫理学上の手法であることを理解した上で、ただしアリストテレスの理論を理解する際には、極めて重要となる考え方、ないし学問的態度だということを知りおいて頂きたい。

・幸福は諸々の行為の最終目的である
 アリストテレスは、自身の倫理学理論を、幸福論から始める。私達も彼の幸福論を理解することから始めよう。
 あらゆる行為には目的が存在する。スーパーに向かって歩くことの目的は、例えば、スーパーで食料品を手に入れることだ。そしてある目的には、さらにその先の目的がある。食料を手に入れることの目的は、例えば、今晩の食事を作ることだ。今晩の食事を作ることの目的は、食事を摂ることであり、食事を摂ることの目的とは、例えば健康であり、また例えば友と楽しい時間を過ごすことである。こうして、あらゆる行為は、その目的に対しての手段であり、またその目的は更なる目的の為の手段である。では、こうした手段―目的の連鎖に、果てはないのだろうか。連鎖の果て、つまり最終的な目的、それが何かの手段としてではなく、それ自体のために求められている最終目的はないのだろうか。もし、最終目的が存在せず、手段―目的の連鎖が永遠に続くだけなのだとしたら、私達のあらゆる行為は、結局は何にも向かっていない、空虚なものとなる。しかし、そうでないなら、つまり私達が、それ自体として求める最終目的が存在するのであれば、それは一体何だろうか。アリストテレスは、それこそが幸福であると言う。確かに彼の言う通り、私達は健康や富やその他諸々の善いものを、幸福のために欲するのであり、決して何かのために幸福を欲しはしないのである。この意味で、幸福こそが、何か他のもののために求められることなく、ただそれ自体のために求められる、私達にとっての最終目的である。

・幸福は最高善である
 最終目的である幸福は、同時に最高善であるとも語られる。これはどういう意味だろうか。手段―目的の関係を見るとき、目的は手段よりも善いことは明らかである。つまり、食事を摂ることは、それが健康に資するが故に善いのであって、食事を摂ることの善さは、健康の善さから引き出されている。健康が善いものである限りにおいて、食事を摂ることは善いと言える。そうであるならば、手段―目的の連鎖の最終目的である、幸福が何にも増して善いのであり、私達にとっての諸々の善さは、幸福に資するが故に善いのであって。その善さは、幸福の善さから引き出されているのである。

・「薄い定義」と「厚い定義」の区別について
 さて、ここまでで「幸福とは私達のあらゆる行為の最終目的である」こと、そして善さの観点から言えば、「幸福とは私達にとっての究極善であり、諸々の善さは幸福との関係から導き出される」ことが確認された。しかし、これは幸福に対する十全な定義とは言えない。つまり、ここまでで私達は、「人間の行為に最終目的があるなら、それは幸福である」と確認したに過ぎず、幸福がどのようなものであるか、その内容についてはまだ一切語られていない。これは「薄い(thin)定義」ないし「名目的定義」と呼ばれるものであり、まずこれを定めてから、アリストテレスは、幸福についての「厚い(thick)定義」ないし「実質的定義」へと進んでいく。この二種類の定義の区別は、アリストテレス自身によっては言及されていないが、彼が物事を定義する際によく使われる二段階の定義づけの方法であり、その手法は注目に値する(この点に関しては、ヌスバウムの論文「相対的でない徳」に詳しく、私の理解は彼女の議論に依拠している。ただし、彼女がこの区別に注目するのはアリストテレスによる徳の定義づけにおいてのことだが、同様の区別が幸福の定義づけにおいても成り立つと、私は考える)。なぜ、幸福の定義づけにおけるこの二段階の区別が重要なのであろうか。それは往々にして、アリストテレス主義的徳倫理に対する批判が、彼の幸福理解に向けられているからだ。確かにアリストテレスの幸福観は現代の私達のそれとは、内容において異なる部分を多く持つ。しかし幸福の内容的定義づけ(厚い定義)に、私達としては受け入れられないものが含まれているからと言って、その名目的定義(薄い定義)は依然として有効なのである。目的論的に幸福を定義することを批判することは、幸福の内容的な定義への批判とは独立して行われなければならないのだ。少々込み入った話になってしまったが、いよいよ私達は幸福の内容について語る準備を終えたとしよう。

・研究対象は、我々にとっての幸福/善である
 幸福とはどのようなものだろうか。ここでアリストテレスによって探求されている対象が、人間にとっての、ないし私達にとっての幸福であると強調しておくことは些細なことではない。ひとつには、ここには師であるプラトンが唱えたイデア論に対する批判を見出すことが出来る。アリストテレス自身が言うように、この世界とは異なる何らかの世界があって、そこに善のイデアがあるという主張は、アリストテレスの倫理学にとっては研究に値しない。なぜならアリストテレスが求めていることは、善を認識することではなく、実際に善く生きることだからだ。たとえイデア界に善のイデアが存在しようとも、それは私達に(認識ではなく、実際に私たちが獲得するという意味で)達し得る善ではない。アリストテレスが研究の対象としているのは、私達が実際に獲得し得る善なのであり、この意味で「私達にとっての善」なのである。

・物のはたらきから、その物に固有の善を導く
 アリストテレスの探求の対象が「私達にとっての善」であるというときの、もう一つの意味は、それが人間に固有な善という意味である。ある物に固有な善を考えるにあたり、アリストテレスはまずその物に固有なはたらきを考察する。例えばナイフに固有なはたらきとは、ものを切ることである。では、よいナイフとはどのようなナイフかと言えば、そのはたらきにおいて卓越したナイフ、つまりよく切れるナイフである。馬に固有なはたらきとは、走ることである(と、アリストテレスは述べる。彼の目的論的自然理解には様々な批判があることは事実である)。ならばそのはたらきにおける卓越性、つまりより早く走ることが馬に固有な善である。一般化して言えば、あるものに固有な善とは、そのものに固有なはたらきをより卓越したやり方で為させるもの、つまり一種の卓越性となる。(ここで善が卓越性と結びつけられたことは、アリストテレスの徳倫理理論全体において大きな意味があるのだが、それは後に考察しよう。)

・幸福・善・卓越性
 「幸福とは最高善であり、他の諸々の善さは幸福との関係性において善いとされること」、「あるものに固有の善さとは、そのもののはたらきを卓越したやり方で為させるような、一種の卓越性であること」、以上2点が確認された。以上のことから、幸福と善と卓越性の三つの関係性が明らかになる。つまり人間にとって、人間に固有のはたらきを立派に為すことを可能にさせる卓越性が、私達が獲得すべき善であり、そのはたらきを完全な形で、実際に立派に為しながら生きることが幸福なのである。
 (ここで一部の読者は疑問に思うかもしれない。それは、諸々の善は最高善である幸福から導かれるといっておきながら、ものごとのはたらきから善を規定しているということは、つまるところ、善を「幸福」と「はたらき」から、二元的に導いているのではないか、という疑問だ。しかし、これは善さを導くことと、善が実際何であるかを規定することの違いに関する誤解だと言っておかなければならない。例えば、ナイフはものを切るというはたらきをもつが、そのはたらきを卓越したやり方で為せるような性質をもつことが、ナイフに固有の善さである。しかしナイフはそれ自身目的をもたない。よってナイフの善さとは、ナイフを使いものを切るという目的を私達が持つ場合に限り、その目的に資するがゆえに、それは善いのである。ところで、人間は人間に固有のはたらきをもち、そのはたらきを卓越したやり方で為させるような卓越性が人間に固有の善さである。そして人間ははたらきをもつと同時に、目的を持つ。よって私達の卓越性はそれが私達の目的に資するがゆえに善いのである。つまり、あるもののはたらきとは、そのものにとっての善を発見し規定する基準であり、それが善い理由ではない。あるものが善い理由は、目的に資するからである。あくまでも人間の卓越性の善さは、最終目的である幸福から引き出されているのである、と私か解する。ただし、この括弧内の議論は一般的な解釈というより、私自身の解釈である。)

・その生物に固有のはたらき(生の形)から、その生物に固有の善を導く
 では、人間に固有のはたらきとは何だろうか。まずは生物全般のはたらきの観察から始めよう。生物において固有のはたらきとは、その生物に固有な生の形を観察することで明らかになる。例えば栄養摂取にかんして言えば、人間を含めたすべての動植物に共通する生の形であり、その意味でよく栄養を摂取できることは、全ての生物に共通する善さ(卓越性)である。植物にとっての生の形とはほとんどこの栄養摂取と成長、あとは種の保存くらいに限られるので、これらが植物に固有なはたらきと呼んで差し支えないだろう。(種の保存に関しては、アリストテレスは挙げていないが、現代の科学的知見からみて、ここにいれて差し支えないだろう。)
 しかし人間を含めた動物全般は、これらのはたらきを植物と共通して持つのではあるが、それだけにとどまらない。よってこれらは人間を含めた動物全般が持つはたらきではあるのだが、固有のはたらきではない。では、栄養摂取・成長・種の保存にとどまらない、動物に固有のはたらきとは何だろうか。アリストテレスはそれを「感覚にかかわる生」であるとする。そして、人間はこの生の形を、動物たちと共通してもつのであるが、当然それは人間に固有の生の形ではない。では、他の動物達と人間を区別するような、人間に固有な生の形、はたらきとは一体何だろうか。

・人間に固有なはたらき(生の形)とは、ロゴスを伴った活動である
 人間に固有な生の形の特徴をアリストテレスは「分別(ロゴス)」に関わることであると述べる(古代ギリシア語におけるロゴスという単語は、理、理性、言葉、分別、理由等々の意味を持つが、ここでは渡名・立花訳に従い、文脈に応じて分別もしくは理由と訳す)。人間を他の動物全般と区別させる特徴は様々あるが、その最も大きな特徴のひとつが分別(この場合では理性と訳した方が適切かもしれない)であること、また他の諸々の特徴の多くは、この分別の有無に起因した結果であることは受け入れてもらえるだろう。
 つまり、人間に固有な生の形とは、なんらか分別に関わる生であり、そのはたらきにおける卓越性が、人間にとっての善となる。しかし、単に分別を所有するのではなく、分別に基づき判断し、選択し、実際行為することが、動物全般と人間とを区別する特徴であるので、「分別を伴った活動をする」ことが人間に固有の生の形といえよう。

・人間にとっての幸福とは何か(厚い定義)
 さて、人間に固有のはたらき/生の形が、「分別を伴った活動」であるならば、そのはたらきをすぐれたものにする卓越性が人間にとっての善となる。ところで、人間にとっての最高善とは幸福なのであった。ゆえに、人間にとっての幸福とは、「卓越したやり方で行われる、分別を伴う活動」ということになる。これをアリストテレスは端的に、「完全な徳に基づく活動」と表現している。ここで読者は、先ほどまでは卓越性とされていたものが、急に「徳」と呼ばれていることに驚かれるだろう。しかし、これは単純に翻訳の問題である。原語ではどちらも「aretē (アレテー)」であり、物事一般に対し使われるときは卓越性と訳し、人間に対して使われる場合は徳と訳すことが一般的である。

・分別に関わる二つの部分の区別による、二つの卓越性の区別
 さて、人間に固有な生とは分別に関わりを持つのであったが、分別に関わるといっても、その関わりかたにおいて二つの部分に区別される。それは「まさに分別をもち思考する部分」と、「分別に従う部分」である。ここでは前者は、一般に理性と呼ばれるものと考えてもらって差し支えないだろう。それに対し、アリストテレスが「分別に従う部分」と呼ぶものは何だろうか。それは、欲望や欲求一般に関わる部分であると説明される。この部分自体は分別を有しているわけではないが、適切な教示や習慣づけを通じて、分別に聞き従うという形で、分別に関わる部分である。
 人間に固有の生の形が、分別を伴い行為することであり、分別に関わる部分が二つに区別される以上、そのはたらきをすぐれたものにする卓越性(徳)も、二つあることになる。つまり、「分別を持ち思考する部分」に対する卓越性(徳)と、「分別に従う部分」に対する卓越性(徳)である。前者は「知的な徳」、後者は「性格の徳」として区別され、共にアリストテレスの徳倫理の中心的概念である。幸福が「完全な徳に基づく活動」と説明された以上、私達のこの後の研究対象はこれらの徳となる。幸福に生きること/善く生きることは、実際どのように為されるのかを理解するには、「徳とは何であるのか」、「徳とはどのように獲得できるものなのか」を理解する必要がある。
 こうしてアリストテレスの議論は幸福論から徳論へと進むのだが、それは次回にとっておこう。

・幸福(エウダイモニア)についての注意
 さて、ここまででアリストテレスの言う幸福の素描を、おおよそ描けたと思われるが、ひとつ注意しなくてはいけない点がある。それはアリストテレスの言う幸福が、現代において一般に幸せと呼ばれるものとは、形からして異なっているということだ。日本語における幸せ、英語におけるhappinessという単語は、一種の一時的な心理状態を指していると理解されることが一般的であると思われる。「私は今日とても幸せです」、という文章は一般的に成り立つと思われるが、ここでの「幸せ」とは明らかに、心理状態、それも一時的な、いわば「幸福感」といった心理状態を指している。しかし、アリストテレスの言う幸福がこのようなものではないことは、ここまで読んで頂いた方には理解してもらえるだろう。アリストテレスの言う幸福は、原語としては「eudaimonia (エウダイモニア)」である。この単語によってアリストテレスは、人生全体にわたる長い視点から捉えられた善き生を指していることに注意が必要である。(この説明は渡辺・立花『ニコマコス倫理学』上巻 第一巻 第四章 註2、及び同書解説2での説明を土台にしている)。

 おおよそここまでの説明で、アリストテレスの幸福論の概要は掴んで頂けたと思う。ここからは、アリストテレスの幸福論に含まれる二つの問題の説明をしたいと思う。しかし序説で述べた通り、ここには私の解釈が多分に含まるがゆえに、一般的な説明ではない。ゆえに、読者の判断でここ以降の段落を読み飛ばしてもらっても、読者のアリストテレスの幸福論全体のおおよその理解は損なわれない構成になるよう配慮した。

・目的との関係からみた、二種類の行為の区別について
 アリストテレスの幸福論は、行為の目的から物事の善さを考察することから始まるのであった。しかし、実はその冒頭、アリストテレスは、目的との関係から行為を二種類に区別する。それは「活動そのものの内に目的をもつような活動」と、「活動の外部に目的をもつ活動」と言い表せるだろう。
 ここで行為を活動と言い直したことには理由がある。行為という単語は私達にとって、一回性かつ単発の行いである印象が強いと思う。しかし、ここで議論されている対象は、一回性かつ単発の行為だけでなく、例えばサッカーをする(これは、走る、ボールを蹴る、飛んできたボールを体で受け止める、といった複数の単発の行為を内包した活動である)、あるいは学問研究を行う(これは一回性の行いというより、日々繰り返し行われる活動である)、といったものが含まれている。よってここでは、これらを活動と呼んだ方が読者の理解を妨げないと考えた。
 さて、本文章では専ら後者の、「活動の外部に目的をもつ活動」を考察してきた。では後者の、「活動そのものの内に目的がある活動」とはどのような活動を指しているのだろうか。残念ながら、アリストテレスは少なくとも、この区別が持ち出される『ニコマコス倫理学』第一巻第一章においては、前者の活動について詳しい説明をしていない。しかし、『ニコマコス倫理学』全体の整合性を考えた時、この活動は以下のように解釈されるのは自然なことだと思われる。
 例えば、ある人がサッカーをするという活動の目的を考えてほしい。彼にサッカーをする理由を尋ねた際、その答えが「好きだから」、「楽しいから」だということは自然にあり得ることだ。彼がサッカーをする理由をそう語るとき、彼が目的としていることは、明らかにサッカーという活動の外部にあるものではない。純粋に好きだからサッカーをするということは、より大きな目的をもたず、つまりサッカーという活動自体のために、サッカーをするということだ。この意味で、彼にとってサッカーという活動は、その活動自体が目的なのである。
 それでも、「彼は楽しさを得ることを目的として、サッカーをしている」という主張で上記への反論を試みる人もいるかもしれない。しかし、「楽しさを得る」という目的は、果たしてサッカーという活動の外部にあるのだろうか。以下の理由で、そうではない。もし、「楽しみを得る」という目的が、サッカーという活動の外部に置かれているのなら、サッカーという活動と、楽しみを得るという目的は、一種の手段―目的関係で捉えられることになる。サッカーが楽しみを得る手段でしかないのなら、結局彼にとってはサッカーでも他の活動でも、楽しいものであればなんでもよいということになる。これは私たちにとっての事実を正しく描写出来ているだろうか。あなたが楽しんで行う活動(サッカーでなくとも、音楽、映画、友達と遊ぶ、お酒を飲む、散歩するでも何でもよい)について想像してみてほしい。むしろ、それらの活動は、その活動に固有の楽しみを得ることで成り立っているのではないだろうか。サッカーに固有の楽しみは、文字通りサッカーという活動に独特なものであり、まさにその活動の内に楽しみを含んでいるのではないだろうか(この記述は後に、アリストテレス自身によって、「快楽は活動に付随する」と表現しなおされるがここでは、ここまでの議論で十分だろう)。
 さて、ここまで目的との関係から活動を二種類に区別してきた。しかしこの区別は、前者でなければ即ち後者である、といった関係であると想定する必要はない。活動とは多くの場合、大小様々な複数の目的を持つものである。活動そのものを目的としながらも、同時に外部に別の目的を持つ活動を認めることになんら困難はなく、またそれはここまでの理論のどの部分とも対立するものでもない。プロサッカー選手になるという外的目的を持ちながら、同時にサッカーという活動それ自体を楽しんでいる(つまり目的としている)、ということは、自然かつ、何らアリストテレスの理論に反する説明でもない。
 行為の区別について確認できたところで、私たちは一つの難問に直面する。アリストテレスは、先のどちらの行為に関しても、より支配的な目的がそれより下にある目的よりもいっそう望ましい(善い)と断言している(『ニコマコス倫理学』第一巻第一章)。しかし、活動そのものが目的となる活動において、より支配的な目的とその下の目的とは、いったい何を指しているのだろうか。これは、単に、活動はその内部に目的を持つ場合においても、必ず同時に外部にも目的を持つのだから、全ての活動は結局、手段―目的の連鎖の内部に組み込まれるのだ、と解釈すべきなのだろうか。しかし、アリストテレスの主張がそうであるならば、そもそもの行為の区別は、「目的を外部にのみもつ活動」と、「目的を内部にも外部にも共にもつ活動」となるはずだったろう。だが、アリストテレスの区別はそうではない。アリストテレスはあくまで、「純粋に目的を内部にしか持たない活動」を考えており、しかもその上で、そのような活動も、より支配的な目的とその下にある目的という関係で考えられると主張しているのだと考えるのが自然である。
 アリストテレス自身の説明は、技術を追求するという活動の例でなされているので、私なりに補足しつつ、ここの議論を見ていこう。例えば戦争術という技術の下には歩兵術、騎馬術、砲術、航海術など、様々な下位的な技術が束ねられている。そしてまた、例えば騎馬術の下には、馬を操る技術や、馬を育てる技術、馬具を造る技術などが、より下位の技術として束ねられる。そしてより上位の技術の目的は、より下位の技術の目的よりも一層望ましい(善い)。そして、このことは、外部に目的を活動そのものであっても、また活動そのものを目的とする活動においても何ら違いはない、とアリストテレスは語る。
 外部に目的をもつ活動においては、もはや何ら難点は無いだろう。活動とその目的を、手段―目的の連鎖の中で捉え、そして全体としては、一つの最上位の目的から複数の連鎖が下位の目的達に繋がり、そしてその目的もまたさらに下位の目的達へとつながるという、いわば下に向かって枝分かれつつ続いていく、木の根のような構造が考えられる。
 では、それ自身が目的であるような活動ほどのように捉えるべきだろうか。私はここで一つの解釈を提案したい。それは、先の構造が活動の「手段―目的の連鎖モデル」と呼ぶとしたら、活動の「包括モデル」、ないし「内包モデル」とでも呼ぶべきものだ。つまり、馬を操る技術や、馬を育てる技術、馬具を造るという技術などは、それぞれがその一部として、騎馬術の言う技術に内包される。また、騎馬術もその他の歩兵術、砲術、航海術などと共に、その一部として、戦争術に内包される、という理解だ。この理解を先のサッカーの例に例え直してみよう。例えばサッカー好きの彼は、リフティングの練習を、それ自体を目的として楽しみ行うだろう。しかし彼はリフティングの練習を、それ自体独立した一つの活動として楽しみ行うのではない。彼はリフティングの練習を、サッカーという活動に内包されている活動の一つとして、リフティングそれ自体を楽しみ行うのだ。ここで、「彼はサッカーが上手くなるために、リフティングの練習を行うのだ」と表現することは、何ら間違いではない。しかし、この「ために」が、手段―目的の関係を表していると解釈することは、間違いを犯している。リフティングはサッカーという活動に対して独立しているのではない。物事が手段―目的の関係であるということは、目的を果たせるのなら、必ずしもその手段である必要はないことを含意している。しかし、リフティングは必然的にサッカーという活動に内包されている要素なのである。それ自体が目的であるような活動は、このように内包されるという形でより大きな活動と関係しているのだ。アリストテレスのいう支配的目的とその下位の目的とは、より包括的な活動(サッカー)の目的と、それに内包される諸要素(リフティング)の目的、という意味としても捉え得るのである。
 この理解は決して些末なものではない。なぜなら、単に「手段―目的の連鎖モデル」では、それ自体を目的とする活動と幸福との関係を説明できないからだ。あらゆる行為の究極的な目的が幸福であるとしながら、それ自体を目的としてなされる活動の存在を認めるには、その両者の関係を正しく捉える、「連鎖モデル」以外の目的理解が必然的に必要になるのだ。さらに(次回以降の議論を先取りする形になるが)、「包括モデル」は幸福と徳の関係を捉える際に、決定的に重要となる。「連鎖モデル」の理解のみでは、「徳は幸福の手段として善い」という主張と、「徳は幸福と独立して善い」という主張のどちらかを必然的に選択しなくてはいけなくなる。しかし、そのどちらの理解も、アリストテレスが自身の倫理理論の出発地点とした幸福の理解からは遠く離れたものにならざるおえなくなる。

・幸福と運について
 もうひとつ、アリストテレスの言う幸福を理解するうえで難点となる箇所がある。彼はニコマコス倫理学第一巻第八章及び九章で、幸福と運について述べている。彼曰く、私たちが実際に幸福に生きるには、生まれのよさや外見のよさといった外的な善が必要であり、また私達の幸福はあまりに大きな不運によっては破壊され得る(ここで言われている「外的な善」とは、とりあえずここでは、我々次第ではない善いもの、ないし運次第である善いものぐらいに捉えて頂いて構わない)。アリストテレスの倫理学の目的が、実際幸福に生きることである以上、ここでの主張はある意味で致命的に思われるかもしれない。理論的理解ではなく、実際に幸福に生きることを求めてこの本を開いた読者にとっては、特にそうだろう。そこで私は、①アリストテレスの倫理学理論全体との整合性という理論的レベル、②実際に我々が幸福になるためには外的な善が必要不可欠なのかという内容的なレベル、③現代の私達が倫理学を勉強する際に、この点をどう捉えるべきかという学術的態度のレベルの、三つのレベルでこの点について語りたいと思う。
 ①まず、理論的なレベルでは、幸福には外的な善が必要であるという主張と、幸福が他の何物によっても高められることのない最高善であるという主張は、全く矛盾しない。仮に、幸福に生きることに幸運が必要だからだと言って、幸運に恵まれたことが私達の幸福をより善きものにするわけではない。それは、家を建てるためには、トンカチやノミといった道具が必要であるからと言って、家の出来栄えがトンカチやノミの出来栄えによって高められるわけではないのと同じである。
 ②では、外的な善に与らなければ私達は幸福に生きられないのだろうか。これは、部分的にはイエスである。その生が終わるという直接的な意味でも、あまりに酷い出来事によってエウダイモニア(幸福)が毀損されるという意味でも、私達の人生には悲劇的な出来事が存在する。道を歩いていて通り魔に殺されることもあるし、愛する家族や友人をあまりに酷い仕方で失うこともある。かなり特殊な状況ではあるが、誰かの命を救うために、自らの手で他の誰かを殺すことを強制される状況というのは、単に想像可能であるというだけでなく、実際に存在し得る状況なのだ。大切な人を酷い仕方で失った誰もが、幸福への道を必然的に閉ざされるわけではない。だが、閉ざされる可能性がある、ということもまた事実だろう。
 しかし、アリストテレス自身が言うように、このようなあまりに大きな不運というものは、稀である。通常、私達が被る幸運や不運は、私達の人生全体を決定し尽してしまうほど甚大なものではない。ほとんどの場合、私達の人生はそれが幸福に向かって開かれているかどうかは、運ではなく私達の生き方次第である。しかし、それでも納得がいかないのであれば、それは倫理的生き方というものに求めるものを間違えている。倫理的生き方とは、自分に降りかかるあらゆる悪いものを取り除いてくれる魔法ではない。善いものや悪いものが様々降りかかるこの人生を、それでもどうにか立派なものにしようとする態度とその実践なのだ。そして、そのような生き方を実践することによってはじめて私達は、降りかかる幸運/不運―あまりに甚大なものは除かれるのであるがーに大きく左右されず、安定的に生きていけるのである。
 思い出してほしいのは、アリストテレスが求めていたのは、私達にとっての幸福、まさに有限で死すべき運命をもってこの世に生まれた私達にとっての幸福であって、それは神々の幸福ではなかった。外的な善とは被るものであって、私達次第ではない。私達にできることは、なるべく運に左右されないよう徳を身に着け、そして実際に徳に基づいて活動すること以外にない。確かに倫理的生き方は幸福を保証しない。しかし、だからといって倫理的生き方を放棄する理由にもならない。なぜなら、私達が実際に(アリストテレスが言う)幸福になれる道は、倫理的生き方(人生にわたって、徳を身に着け、実際に徳に基づき活動すること)以外にはないのであるからだ。この点に関し、多分に私の解釈が入っていることは疑い得ないが、アリストテレスが、幸福には外的な善が必要であると言いながら、一方で私達次第の幸福を実現する理論を追求し続けたとき、彼はこのような人生観をもっていたと想定することは許されると私は思う。
 ③さて、第三に、アリストテレスが挙げている、幸福に必要な外的な善を私達は必ずしも受け入れる必要はない。ここで生まれのよさや外見のよさを挙げているとき、アリストテレスは明らかに時代的・文化的制約を受けている。奴隷制が当たり前であり、奴隷と市民は本性において違いがあり、奴隷には市民的徳は身につけられないと考えていた、古代ギリシア的人間理解を私達は引き継ぐ必要はない。これは、女性を男性よりも劣っていると考えた古代ギリシア人の人間理解に対しても同様である。幸福に生きるためには外的な善も必要であるとする主張自体を受け入れることと、必要とされる外的善の具体的なリストから、生まれのよさも、外見のよさも除外することは両立する。もちろん、理論的でなく、実際的な意味で除外するためには、私達が実際に生きる社会が、生まれによってその人の人生が大きく規定されてしまうような状態から脱する必要がある。しかし、これは徳倫理理論の欠陥ではなく、社会の側の欠陥であり、改善されるべき社会の課題なのである。
結局のところ、私達の人生を大きく規定してしまう可能性がある外的な悪(善の欠陥)とは、生得的性質ではなく、人生を生きる上で降りかかり得る大きな不運に限られる(べき)だろう。(このように考えるとき、アリストテレスが倫理学を政治学の一部分と捉え、個人の幸福の研究の先には、実際に各個人が幸福を追求できるような国をつくることへの研究が続くとしていたことは、ごく自然なことのように思われるのである。)

 以上をもって、アリストテレスの幸福論はおおよそ理解して頂けたと思う。先述した通り、ここから議論は徳論へと入っていくのだが、それは次回にしよう。


Ⅲ 金貨

 アンティーク調のその箱は全体を黒く塗られて、縁は細い金縁で囲まれている。各面には木彫りが施され、大部分の塗装が剥げていることから大分古く、保存状態もよくなかったことがわかる。錆び付いた留め具を外し、アーチ状に膨らんだ蓋を開けると中には多くの古金貨が入っていた。
 そのほとんどに男は興味を示さなかったが、幾つか気になる金貨を手に取り両面を返しながら見てみた。幾分気分がよくなり、どれか一枚を指で弾いてみたくなった。だがその衝動を抑え、更に箱をあさった。暫く、短くない時間続けたのち、やがてお目当ての一枚に辿り着いた。片面には中世風のドレスを纏った女が施されており、その顔立ち、表情、佇まいには穏やかさと潑剌さが調和しており、静かな希望に満ち、おおよそ人生の歓びの全てを表しているに違いなかった。男は胸が躍るのをなんとか抑え-そして少し憂鬱さを覚えながら-くるりと金貨を裏返した。そこにはみすぼらしい姿の、ほとんど乞食と見間違うような男が施されている。それでもそれが死神なのだろうと辛うじて判別できたのは、地面にまで届いた黒いガウンと刃こぼれが酷い大きな鎌のおかげだろう。男が思い描いていた姿とは違い、運命を弄び悪意で遊ぶような快活さを、そこから感じることは出来なかった。むしろ、哀れみを誘うような粗末な身なりと表情、鎌にもたれて立ち尽くす姿からは、その苦しい息遣いが伝わってきた。静かに死神を眼差し、男は「やはり彼は乞食なのかもしれない」と思った。
 再度箱の中に目を向ければ、有象無象の金貨の中に先程見て回った、騎士、修道士、町娘といった魅力的な金貨が散らばっている。男は今手の中にある金貨をどこかに投げ捨てたい衝動に駆られた。こんなものは最初から入っていなかったのだ、と思い込みたがっている自分に気付いた。男は再度金貨を裏返し、女の顔を見つめた。
 思い詰めた表情でどれだけ見つめ続けただろうか、男は金貨を親指で宙に向かって弾いた。金貨はくるくると両面を入れ替えながら綺麗に宙に昇って行き、男の目の高さほどまで上ると、また両面を入れ替えながら落ちていった。チャンという音と共に金貨は箱の中に戻り、もはや無数の金貨の中でどれがその一枚であったか分からなくなった。
 男は静かに蓋を閉め、丁寧に留め具を掛けた。

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