どうか笑つて

月草偲津久



  短歌連作『どうか笑つて』

愉しげに酒飲み笑つたあの時に君は隣で見てゐたのかな

死を選ぶ人が居るから生きてゐたい世を見人を見また文字を書け

言葉など却つて心が霞むものだつて優しい嘘があるから

死を選ぶ君を恨まずあの世では心置きなくどうか笑つて

最果てに死があることを知りながら道を急がずたまには座ろ

いまは亡き君に言葉をかけるならできれば生きてゐて欲しかつた



いつも君は浮いてゐた
話す言葉も仕草もすべて、地についてゐなかつた
ぼくの自慢のモデルガンを、おもちゃだと揶揄つて
こどものやうに扱はれてた

だからぼくの本気をみせたかつた
浮いて捉へどころのない君の、地につく場所をさがしに
君とぼくがおなじ位置に立てる場所へ
それはきつとここじゃない

この街から逃げたい、君とバスに乗つて
あの夏の日、ぼくはバス停で君を待つ 夕暮れ
約束をやぶつたくせに、君はひとりで行つちやつた

ぼくは駅に行つて、電車で街からとびだした
さやうなら、君
さやうなら、街


飛びたいわたし、飛べない君
君の好きなモデルガンから、もしもほんものの弾がでるとしたら
「わたしといつしょに死んでくれる?」
いつも得意げに持つてゐたのに、あれからわたしには見せなくなつたね

いつも強気でほんたうは弱い君
だから期待はしてゐなかつたわ
君が街から逃げたいと言つたとき、やつぱりわたしは信じなかつた
バス停で待ち合はせして、ずつと陰から君を見てたの

そしたらほんたうに待つてゐるんだもん
わたし、君のこと見直して、急いで荷物を取りに行つたの
はしつてくる車にも気づかずに

それを見てた君つたら、迷はず駅まで行つちやつた
いつたわたし、いつた君
ほんとバカみたいだけど、ありがと




『ダイヤの乱』

「これから飛ぼうと思ふんです」
「きつとダイヤが乱れるよ」
「飛んだあとは関係ないので」
「私が家に帰れない」
「飛んだあとは関係ないので」
「親に賠償請求がいくよ」
「飛んだあとは関係ないので」
「父の死に目に間に合はない」
「ごめんなさい」
「停まつたら私が飛べないでせう」
「だから私は飛ぶんです
 あなたに 生きて 欲しいので」




『匿れんぼ』

「もういいかい」
私はずつと大きな聲で
「まアだだよ」と言ふ子でした。

鬼が歩きだして
足音だけの静寂になつても
私は変はらず小さな聲で
「まアだだよ」と言ふのでした。

大人になつても未だに私は
「まアだだよ」が続いてる
誰もが去つた後の公園で
延々と 延々と
小さいままの私が 小さな聲で




『凪の水槽』

私は外見上では女性的でありながら、
荒々しく「俺」と自傷するあの子を視ると
狭々しい世の中を感じて電線の一本さへも
やけに目につく秋の夕暮れだつた。

罵詈雑言が飛び交ふ教室では
あの子が服の下に「割れモノ注意」と貼つたまま
冬の雪の下の花の真似つこをつづけてゐた。

みんなが笑つてゐるままに。
春みたいな陽気さで、奪はれる命があることを。

あの子の下駄箱は汚いままだつたけど、
明日からは綺麗だ。
もう、ずつと綺麗なままで。
漸くあの子の望んだ放課後です。




『芸術道徳のために。』

素晴らしい音楽を狂ひなく吐き出すスピーカーからは、
有史以来の天才たちが生涯外労働を強いられてゐたので
それを憐れんだあの子は金属バットを手に取るのでした。

浅学な先生が指ひとつでその偉大さを子供に教へながら
姿勢の屑れた子を叱るために使用する手が同じならばと
瑕だらけの手首を匿すあの子が目論むのをブラームスはぢっと視てゐました。

放課後の光がグランドピアノを主役に見据ゑるころ
職員室からいっそう濃くなるコーヒーの香りを鍵ました。
もう夏だといふのに小刻みに震へながらあの子は
練習まへの野球部からバットを一本くすねていきました。
これから熾ることを凡て報ったかのやうに烏が啼き喚いて
完璧な睡りに憑いたスピーカーは命乞ひもしませんでした。
振り上げたバットの先端を見つめて確かにバッハが息を呑んだ。
「さあわたしこそ偉大な救世主だ──」




『嵐を経て落ちる夜に』

あの夜ぼくは、本当に美しいものを見た。
ちやんと生きたいとも、もう生きてゆかれないとも思つた。
空に張りつく星々はあんなに綺麗なのに
ぼくは川辺の小道で ひとりであつた。

空気はどこまでも澄んで
あのベテルギウスさへも涙ぐんでゐるみたいだつた。
「ねえ」
誰も答えてくれやしない
「あのさ」
君の許に往きたいと言つたら
怒るだらうか

──ポドン・・・
水面を叩く音がした。
絶対魚だらうけど、君からの返事とも思へた。
小石をひとつ拾ひあげ、川面へ放る。
トボン──・・・
あとは静寂だつた。
しかし夜空にひと瞬間、星が綺麗に尾を曳いた。
願つたところで叶ふはずもない。けれども
まだ君のために 生きたいと思つた。




『詩に方を想ふ』

再会を誓つた誰も居なくなった水槽で
君が跳ねたかと思ふ音は
忘れることのできない博愛性殻だつた。
空泡は無意味ではないからこそ、ひたすら昇りつづける。

きつと幸せの数を確かめてゐる間に
贋作ばかりになつてしまつた木曜日の午後
ほんのりと香るココアの薄膜の上では
今日も君が詩に方を夢想してゐた。

秋の陽はてらてらとした肌障りで
冷たい風を運んできたあの連峯の頂から
徐々に色づいてゆく葉々の子守唄が
ゆつくりと近くなるにつれて、死の香りも
真後ろに、虚ろげで
睡魔とともに幸福の色をしたカーテンが
美しいものだけを映しながら
愛すべきだつた君が迎へにきた気がした。




『幽昧なる君』

雪のちらちらふる道を
手は裸んぼのままで行つた
隣を共に行く君の
雪みたいに白い首筋へ
そつと手を差し込む

君はびつくりして聲をあげたけど
それ以外なにも音はしなくて
ふゆは とても静かで いい
世界がぐうンと狭まつた気がして

鳥や蝉の聲も
夢だつたやうな気がして
長い長い理想を思ひ描いてゐた
だけだつた気がする。

君の髪についた雪が
気づいたら消えてしまつてゐるやうな
不確かな記憶のなか
僕も君も 互いに笑ひ合つた
視界もあいまいなまま ずつと




『一時停止の秋』

雲 流れる まま
人 移ろひ 往く
昇る 秋の雲間
君の面影を 見ゆ

不可思議な 虹を見た
まるで 終はりを 祝ふみたく
風にひらひら 揺れてゐた

変はつたのは 僕で
もう動かない 君の時間を
ある定刻に留めようと
砂時計 ひたすらに振るふ

心 喪ふまま
刻 流れつづける
飛び散つた 砂つぶに
愛ほしき 憶ひ出を 見ゆ

秋の雲 高く
高く 高く 高く
いづれ消え往く
道のりも また




『停夏』

射しこむ陽 天井へ張りつく
音の途絶えた 夏の午後
雲もなき 浅葱のそら
んぬウ んむウと 腹が鳴る

世界が停まつちまつたみたい
だのに 僕の腹が律動する
ぼうとした徒然も
静でなく 動

射しこむ陽 天井へ張りつく
影徐ろに這ひずりゆく
空席の胃 低く長鳴る
ブウウーーーンン
これじあまるで映画館
ホラ、もうすぐ動きだす。




『夏( )秋』

休暇を終へ 出勤の朝、
閉め切つた カーテンの隙より
サウと浮ぶ 倦怠の相

眼底のまた奥底、ぐんわりと痛み
寄せ返す 躁鬱の波

昨日までの夏は了つた──!
虫々の聲で予感す。
それだのに張りつく暑さは
断末魔か? それとも新季節か?

夏のけはひのする、夏の了つたのちの時代
秋は消えたといふらしいが、
此の地点は なんと称ぶのが相応しい?
虚げで、独りげな 背なを張りつく
汗と熱気の正体は──!




『四行詩』

おまへはもう、深い夜道の暑さも忘れて
蛇のやうに、あの子のもとへ往け。
気づけば悲しみなんぞも混ぜこぜに
み空にひろごる 藍いろのモダン




『無題十月二日(日)』

君の手の温もり余は知らぬ
知らぬまま、君逝きぬ
形なき文字と電波の世界のうちで
余と君は繋がりぬ、繋がりぬ

君逝きてのち、君の好みし花思ひ出しぬ
鈴蘭の花言葉や、君影草の名初めて知りぬ
気づけども、君の影はこの世にをらぬ
君の顔も、逝きてのちに知りぬ

何も知らぬ余と君なれども
君の心の温もりを余は知りぬ
君の優しき言葉を余は知りぬ
君の遺した嘘を、余は知りぬ
温かい嘘なりき、涙止まらぬ

報せを受けた明けの空、美しき
青空はどこまでも澄む
雲は濃く高く秋の訪ひを知らす
夜露も輝きぬ、何事もなく、何事もなく




『剥離』

りーりるららら
名前も知らない音楽が聞こえてくる旅に、
私の心は世界との剥離を身い出すのです。
さあ自分とのお別れです。

たーりらるるる
口の中で脳髄から滲み出たリズムを、
そのリズムから皿に零れ落ちた言の葉を、
誰にも知られずに唱へるのです。
世界が私の心から剥離してゆく。
さあ世界とのお別れです。

それでもリズムがどこか似通つてゐるのは、
私がまだ世界とのつながりを忘られぬからでせうか。

あの頃見た空の色を思ひ出しても、
やつぱり目の前の空とどこも違う所なんかないやうに思はれて、
それでもあの時に見た雲の形は、
もう同じやうに顕はれることなんてなくて。

夏の終はりに向日葵畑に行き、
哀しさうに頭を垂れる彼を見て、
涙がこぼれないやうにずつと隣りに坐つてゐたのです。
次の日そこを訪れてみると、
根元から無惨に散ぎりとられた彼だつたものが、
もう悲しい事なんて無いかのやうに、
秋を枕にして静かに穏やかに眠つてゐました。
だから哀しいことなんて、この世界にはないのです。
だから寂しいことなんて、この世界にはないのです。
そのことがあまりにも嬉しすぎて、涙が。

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