「カメラはますます小型になり」、とヴァルター・ベンヤミンは指摘している、「秘められた一瞬の映像を定着する能力はますます向上している。こうした映像が与えるショックは、見る人の連想メカニズムを停止させる」(「写真小史」久保哲司訳)。ベンヤミンがこの文章を記したのは一九三〇年代だが、さらにカメラの小型化と普及とが進んだ現代にあって、この指摘はますます有効性を増しているように思われる。すなわち、「決定的瞬間」を収めたいわゆる衝撃的な映像であれば、いまや多すぎるくらいに存在する。しかし、それらがもたらす印象が単なる「ショック」、言い換えれば生理的な反応にとどまるものだとすれば、つかの間消費されるだけの激辛ラーメンと大差ない。
この問題を踏まえてベンヤミンは、写真の潜在的な可能性を引き出し、思考を促す手段へとつくりかえるための技法として、写真に標題を与えること、すなわち言語の作用を通じてイメージを文脈化することを提案している。「そうした標題がなければ、写真における構成はいずれも曖昧なものにとどまってしまうにちがいない」。さかしらな意味付けなどなしに、イメージはただそれ自体として提示され、鑑賞者に委ねられるべきだ――そんな議論にも一理あるだろうが、現代におけるイメージの氾濫と消費に抗うための技法として、私はベンヤミンにならって言語が重要な意味を持ち得ると考えている。言葉はしばしばイメージを単一的な意味作用へと還元するものであるように考えられがちだが、逆にイメージと衝突し、そうすることで言わば火花を散らすものともなり得るはずだ。そんな火花が批評と呼ばれるものなのだとすれば、私は多分、映像技術の発展に批評的リテラシーが追い付いていないことに些かの疑念を感じており、しかし他方ではどこかで、批評の可能性そのものに対しては楽天的なのだろう。
ところでベンヤミンは、標題の重要性について記した先の一文に続き、やや唐突な一節を記している。
アジェの写真が犯行現場のそれに比せられたのは故なきことではない。だが、私たちの住む都市のどの一角も犯行現場なのではないか。都市のなかの通行人はみな犯人なのではないか。写真家――鳥占い師や腸卜師の末裔――は、彼の撮った写真の上に罪を発見し、誰に罪があるかを示す使命をもつのではないか。