星の友情

渡辺 一樹

かつて、そいつの快活な笑顔を見るのがとても好きだった。笑顔がはりついて大きな皺となってしまったようなその顔は、ひどい名前で揶揄われたものだった。そのふざけた態度と、やや甲高い笑い声は、いまでもきわめて具体的に、想い出すことができる。そいつのことがとても好きだったので、どんなことも思ったとおりに話した。きっとそいつも同じだったのだろう。いろんなことを話してくれた。

互いのことをよく知りすぎてしまったのかもしれないし、けっきょくは家族になれない者同士が抱えがちな、「こいつは本当はじぶんを理解していない」という感覚が大きくなりすぎたのかもしれない。凝り固まった先入観が癌のように蓄積したのか、そもそも相容れないところがありすぎたのか。一緒にいるようでじっさいにしてきた経験がまったく違ったのか、経験に対する解釈が違っていたのか。長い年月付き合っていたのだから、お互いいろんなことがあったのは間違いない。とにかく、いつからか、そいつの言っていることがなにひとつ受け入れられなくなった。その詳細は書かないが、向こうもそうだったのだろうから、どうしようもないことだったに違いない。そいつの言うことほど、そしてそいつの書くことほど、ひとことひとことを、一文一文を、心の中で「違う」と言いながら、聞いて読んだものはかつてなかった。

これは気分の悪いことだったことはたしかだ。じぶんにとってそいつはとても大事な存在だったから、どうしても、「違う、なんでわからないんだ」とそいつを説得しようと思ってしまったからだろうか。本当のところはじぶんでもわからない。悪癖としか言いようがないが、昔からひとと揉めると、説得して話を決着させようとした。ましてやそいつのことは、どうしてもなんとかしたかった。とにかく、そいつの顔をあまり見なくなるようになっても、苛立ちが募った。その苛立ちは、しかし、俺の成熟する場所だった。それは、いつも対抗する思考を喚起し、頭の中のそいつを叩きのめす武器としての鋭い論証を鍛えていった。もし会うことがあれば、その鍛えあげた武器で刺してやる気だった。また、思考における成熟は、俺の生を実践すべき道を指し示した。新しい生活、新しい確信、新しい友、新しい家族——今のじぶんが示すあらゆるスタイルは、思考と一致しており、説得力をもってそいつの先入観を砕くことができる。

どうしてかはわからないが、ある日そいつのことを考えていると、ニーチェの一節が頭にのぼった。そして、殺伐とした感情は、それを溜め込んだ期間の長さから考えるとおどろくほどに、跡形もなく消えた。いまではそいつの言葉を読んでも——むろん「違う」を言いつつも ——たくさんのことを学ぶことができる。迫り来るスパーリングパートナーはじぶんを鍛えるほぼ唯一の相手だが、我々はそのパートナーと格闘すれど、刺す意味はどこにもない。それと同様に、なんの曇りもなく、そいつのことをふかく尊敬していると言える。敵として、つねに学ぶことがある相手だ。なにより、俺のスタイルをつくってくれた大事なひとのひとりとして、感謝せずにはいられない。俺たちは二度と出会わないことはたしかなのだから、はなむけとして、俺にとって大事なニーチェの言葉を贈る。このニーチェの洞察の一点のみにおいて、俺たちは一致することができるかもしれないと思うからだ。さようなら友よ——お前にとってこんな言葉は余計なものかもしれないが、お前への尊敬と礼儀から、俺はそれを贈らずにはいられない。

星の友情。──われわれはかつて友人であった。ところが疎遠になってしまった。だがそれは当然であり、われわれはそのことを、恥ずべきことであるかように隠し立てしたり曖昧にしたりしようとは思わない。われわれは、おのおの自分の目的地と航路とをもっている二隻の船なのである。ひょっとすると、われわれが再び相まみえて、昔やったように一緒に祝祭をあげることだってあるかもしれない。──そうしたときには、勇ましい二隻の船は、一つの港に一つの太陽を浴びて安らかに横たわり、さながら、どちらもすでに目的地に着き、同じ目的地を目指していたかのように見えたことだろう。しかしやがて、われわれの任務の全能の力は、再びわれわれを別れさせ、別々の海と別々の日照地帯へと追いやったのだ。おそらく、もう二度と再会することはないだろう。──あるいは、たとえ再会したとしても、おそらく、お互い見分けがつかないことだろう。別々の海と太陽とが、われわれを別物に変えてしまったのだ。互いに疎遠にならなければならないのは、われわれを支配する法則なのである。まさにそれゆえにこそ、われわれは互いにいっそう畏敬に値する者ともなるべきなのだ。まさにそれゆえにこそ、われわれの過ぎし日の友情の思い出はいっそう聖なるものとなるべきなのだ。われわれのじつにさまざまな航路の曲線を描く一つの星辰軌道が、きっと存在するのである。──こうした考えにまで、われわれはお互いを高め合うことにしよう。だが、かの崇高な可能性という意味で友人以上の存在になりうるには、われわれの人生はあまりに短く、われわれの視力はあまりに乏しい。──だから、われわれは、われわれの星の友情が存在すると信じることにしよう。たとえわれわれが、地上ではお互い敵とならざるをえないとしても。

フリードリヒ・ニーチェ. 『愉しい学問』279番 (森一郎訳) 

目次へ